フジテレビの「佐藤二朗」対応と日本テレビの「国分太一」対応はソックリ 「コンプライアンス」偏重がもたらした人権侵害

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その「ハラスメント排除」はハラスメントにならないのか

「理不尽なハラスメントは社会からなくなったほうが望ましい」――そんな正論を否定する人はいないだろう。

 一方でハラスメントをすべて排除しようとして過剰な反応を示すと、別のハラスメントが生まれることもある。思い当たる節のある方もいるだろう。これはハラスメント問題に限らない。

 近年、加害者とされる側の「罪」と、その後に科せられる「罰」が釣り合わないように見えるケースが少なくない。何かミスがあれば、「社会的抹殺」という刑事罰以上の罰が下されるのだ。

 俳優の佐藤二朗、橋本愛が主演したドラマ「夫婦別姓刑事」を舞台に起きた「ハラスメント問題」で、佐藤への同情論が多く見られるのもこのあたりの風潮への違和感が背景にあると言えるだろう。

 仮に佐藤の言動に問題があったとして、フジテレビから断罪されるようなものだったのか。週刊新潮に掲載された佐藤のインタビューによれば、問題発生後、フジテレビ側の弁護士からは「本当に彼女(橋本愛)が潰れてしまったら、佐藤さんのタレント生命にも傷がつきますよ」と「脅しのように」聞こえる言葉を投げかけられたという。佐藤自身の説明には耳を貸してもらえず、「僕が加害者だという結論ありきの聴取をされているよう」で、「俳優人生は終わるかもしれないと思ったら、心底怖くなりました」と振り返っている(同インタビューは情報・教養サブスク「新潮QUE」に全文掲載)。

 この証言から、「佐藤もハラスメント被害者では」との声があがったのは自然なことだろう。またテレビ局を舞台にした同様の出来事を連想した向きも少なくないのではないか。2025年、日本テレビの人気バラエティ番組「ザ!鉄腕!DASH!!」で起きたタレント、国分太一の「セクハラによる番組降板」問題である。

 この時も、テレビ局側の「事情聴取」などのやり方に対して、「そっちのほうがコンプライアンス違反なのでは」との指摘があがっていた。

 当時の経緯を振り返ってみよう。

いきなり抹殺された国分太一

 2025年6月、日本テレビは「ザ!鉄腕!DASH!!」出演の国分による「セクハラ」を問題視し、事情聴取の末、彼の降板を決定。さらに同社社長が記者会見で、国分の「コンプライアンス違反」を一方的に発表する。

 問題はこの間、国分はもちろん所属事務所サイドも、結局何がコンプライアンス違反にあたるかを知らされていなかった点である。のちに行われた記者会見で国分は、事情聴取から処分に至るまでのことを次のように語っている(大意)。

「『コンプライアンスについて聞きたいことがある』と言われて突然、聞き取りが始まった。スマホで録音しようとしたが、相手方の弁護士に禁じられた。降板が告げられて頭が真っ白になった。今に至るまでどの行為がコンプライアンス違反なのかわからない。答え合わせや被害者への謝罪を日本テレビに求めたが、拒否された」

 ほとんど暗黒裁判のようなプロセスを踏んだのち、社長自らが国分の「コンプライアンス違反」を会見まで開いて日本中に広めたのだから、国分側のダメージは大きかった。以降、彼は実質的に表舞台に出られなくなったのである。

 これについては長い間苦楽を共にした松岡昌宏も次のように違和感を口にしている。

「日本テレビさんには30年お世話になって、一緒にものを作ってきた。その信頼関係があったとわれわれは信じていました。しかし、国分さんの降板について、われわれには何の説明もない。果たして一体どのタイミングの彼の行動がコンプライアンスに引っかかったのか、というのは、世の中のみなさんと同じように、われわれも今の今までクエスチョンのまま。被害者の方がいるから仕方ないのかもしれません。しかし、何も説明しない、という日本テレビさんのやり方はコンプライアンス違反にはならないのでしょうか。体を張る番組ですから、30年間、いろいろなことがあり、ケガもありましたし、病院にも何度も運ばれています。今さらそれをどうこう言うつもりはありませんが、それはコンプライアンス違反にならないんですかね、といったことも考えてしまいます。また、何の説明もしないまま番組を降板させられるのであれば、国分さんの次は自分、その次は城島、世の中のタレントさんみんながそうなってしまうのではないか、という危惧があります」

(デイリー新潮2026年1月4日「松岡昌宏が語った、国分太一への思い 『日本テレビさんのやり方はコンプライアンス違反ではないのか』城島茂は謝罪を拒否」より)

 フジテレビとの共通点は、事情を聴かれる側が、聴く側の弁護士に高圧的な姿勢を感じたこと、一方的なストーリーで「加害者」扱いされたこと等が挙げられる。フジテレビも日本テレビも、自分たちの対応には問題がなかった旨を主張している。日本テレビに至っては、「日本テレビ ガバナンス評価委員会」名での文書を公開し、自分たちの行為(調査から処分、公表に至るまでのプロセス)の正当性を強く主張している。

 しかしそこには国分の人権への配慮は見られない。日本テレビによれば彼の「セクハラ」は刑事罰に問うようなものではないという。その「コンプライアンス違反」によって一人のタレントから職業を奪ったという結果への責任には目を向けない。

「そういう“加害者”に甘い姿勢が、諸悪の根源なのです」――そういう立場の人もいるのだろう。強面の取調官と化した弁護士もその類かもしれない。

正義と狂気は紙一重

 しかし、「コンプライアンス遵守」さえアピールできれば、それでいいのだろうか。「コンプライアンス遵守」の名のもとに犠牲になっている人に目を向ける必要はないのだろうか。大企業の「コンプライアンス遵守」が、個人の人権を侵害したことにはならないのだろうか。

 コンプライアンスという名の「正義」が肥大化した現代への違和感を抱く人は少なからず存在する。社会学者の古市憲寿氏は、著書『正義の味方が苦手です』で次のように述べている。

「『正義』の暴走は、時として甚大な被害をもたらす。たとえば20世紀半ばに起こったアジア太平洋戦争では、「聖戦」や「大義」という名のもとで、日本だけで300万を越える人命が失われた。同じ過ちを繰り返さないためには、同時代にどれほど素晴らしく見える正しさも、絶対視するべきではない。

 特に、熱く正義を語る人の横顔に、好戦的な表情が覗いた時には注意したい。多くの『正義の味方』が、敵を倒すために暴力の行使を辞さないように、正義と狂気は容易く結びつくものだ。

 さすがに現代の『正義の味方』は、暴力を振るうことは少ないものの、時に軽々しく他人の口を塞いだり、社会から追放しようとしたりする。

 近年ではキャンセルカルチャーといって、著名人の言動を告発して、社会の表舞台から消し去ろうとする社会運動が盛んだ。また街角のポスターや、企業や自治体のCMなども『ハラスメント』だといった理由で糾弾の対象となる。

 もちろん、議論は大いにされるべきだ。だがその目標が、誰かの排除となった場合は恐ろしいことになる。まるで物語の中のように、『犯罪者』が『正義の味方』として崇められる事態まで起こる」

 正義の拳を振り上げる側は、殴られた側のダメージを意に介さない。自らの行為の正当性を疑わず、常に自分たちは「善」の側にいると確信しているからだ。

 キャンセルカルチャーに一定の歯止めをきかせることは社会にとっては大切なことかもしれないが、自らの正義に酔う「正義の味方」たちにとっては都合が悪いことかもしれない。他方で、こうした「正義の味方」への疑問を呈するのが本来のメディアの仕事であることは、戦時中の話を持ち出すまでもないだろう。

「正しすぎる社会は怖い」と説く古市氏の「正義の味方」に関する論考は、新潮QUE〈キャンセルカルチャーがはびこる世界だから学びたい「コンプラ過剰社会」の思考法〉で詳述されている。

デイリー新潮編集部

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