養老孟司さんはなぜがんになっても動じなかったのか Nスペが追った闘病生活の背景にある独自の死生観
7月5日に放送されたNHKスペシャル「私の往生際 養老孟司が見つめた“生と死”」は、肺がんが見つかった養老さんの闘病生活を捉えたドキュメンタリーだった。
テーマは深刻なのだが、養老さんの表情に不思議と深刻さや悲壮感はない。それは長年、解剖という仕事で遺体と向き合い、また「死」を一つのテーマとして考え続けたゆえだろうか。
なぜ養老さんは死を身近に意識しながらも淡々と、それどころかどこか明るく暮らしていられるのか。
その死生観を知るうえで重要な養老さんの著作が『死の壁』(新潮新書)だ。460万部を超える『バカの壁』の続編的な作品として発売された同作もまた80万部を超えるベストセラーとなっている。現在、情報教養サイト「新潮QUE」で公開中の『死の壁』から、養老さんならではの死生観が垣間見える文章を抜粋してご紹介しよう。
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死の恐怖は存在しない
死について考えることは大切だとさんざん述べてきました。しかし、だからといって死んだらどうなるかというようなことで悩んでも仕方がないのも確かです。死について考えるといっても、自分の死について延々と悩んでも仕方が無いのです。そんなのは考えても答えがあるものではない。したがって「死の恐怖をいかに克服するか」などと言ったところでどうしようもない。
それについてあえて答えるならば、「寝ている間に死んだらどうするんだ」と言うしかありません。寝ている間に死んでしまったら、克服も何もあったもんじゃありません。意識がないんですから。(略)
死んだらどうなるのかは、死んでいないからわかりません。誰もがそうでしょう。しかし意識が無くなる状態というのは毎晩経験しているはずです。眠るようなものだと思うしかない。
そんなわけで私自身は、自分の死で悩んだことがありません。死への恐怖というものも感じない。自分の死よりは、父親の死のほうがよほど私に与えた影響が大きかった。
それは解剖をやっていることとも関係している。結局、死という抽象的なものではなく、死体という具体的なものをずっと対象にしていたわけです。死について述べるときに死体の話になるのも、それをさんざん扱ってきたし、具体的な話が出来るからです。
このへんは私の感覚はあまり一般的ではないのかもしれません。だから私が死についていろいろと言うと、「何を屁理屈言ってるんだ」という反応もあるのです。しかし、こちらからすれば私のほうが具体的な話をしていて、向こうのほうが抽象的な理屈に聞こえてしまう。一般化していう「死」というものが非常に抽象的な話に聞こえて仕方が無い。「それは一体誰の死の話なのか」ということなのです。
死というのは勝手に訪れてくるのであって、自分がどうこうするようなものではない、それを考えるのは猿知恵で良くないと思っているのです。きっときちんと考える人もいるのでしょう。しかし私はそうではない。だから自分の死に方については私は考えないのです。
無駄だからです。(略)
先日、オーストラリアに旅行しました。その時、向こうに住んでいる知人に現地に着いてから連絡を入れたところ、「You are an organized man.」と言われました。「相変わらず、きちんとしている人ですねえ」というくらいの意味でしょうか。もちろん皮肉です。久しぶりに来るんだから、連絡くらい事前にきちんと入れなさいよ、と言いたかったのでしょう。
そのくらい計画性がない人間が、自分の死の準備なんて綿密に考えても意味がない。
そもそも葬式の日取りも知りません。せいぜいやっているのは、家族のために借金を整理できるようにしようとか、虫の標本の整理をしようかとか、そんな程度です。(略)
悩むのは当たり前
私のところに「生きがいとは何ですか」という類のことを聞いてくる方がいらっしゃいます。そもそも死の話や生きがいの話は、お坊さんがやればいいことなのです。かつては宗教家がそういう役割を担っていたのです。
それでも聞かれたのでこう答えました。生きがいとは何かというような問いは、極端に言えば暇の産物なのだ、と。本当に大変なとき、喰うに困っているときには考えないことです。
喰うに困っていなくても、トイレに行きたくて切羽詰っているときには考えない。とにかく早く行って、出すものを出したいと思うだけです。そのあとにホッとしてからじゃないと、生きがいについてなんて考える暇もないでしょう。
つまり何かに本気になって集中しているときには、生きがいとは何かなんてことについて考える余裕も必要もありません。そういう人生論が求められるという状況は、現代人が感じている閉塞感が関係しているのでしょう。
しかしそもそも人間、悩むのが当たり前なのです。
今では京都大学の教授になった私の後輩が若い頃、解剖学をやろうかどうしようか迷っていた。それで私の先生に相談した。すると、その先生は一言、「悩むのも才能のうち」と言ったそうです。
それで彼はホッとした。そもそも悩めない人間だってたくさんいます。そういう人がバカと呼ばれるわけです。悩むのが当たり前だと思っていれば、少なくともそんなに辛い思いをすることはない。
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養老さんは決して死について考えることをムダだと言っているわけではない。同書にはこんな文章もある。
「いまでは多くの人が、死を考えたくないと思っているようです。もちろんそんなことを考えても考えなくても、さして人生に変わりはないはずです。結論はわかっているからです。でもたまにそういうことを考えておくと、あんがい安心して生きられるかもしれません。ともかく安心して生きていますからね」
養老さんががんになっても動じなかった秘密はこのあたりの考え方にあるのだろう。
新潮QUEで配信中の記事【「自分の死についてあれこれ考えても仕方がない」 Nスペが闘病生活を追った「養老孟司」さんの独自の死生観】では、『死の壁』の中で養老さんが明かした死生観について、詳しく取り上げている。


