母はなぜ「石原裕次郎氏」葬儀に参列しなかったのか 「石原慎太郎氏」が明かした理由と「とにかく強烈」な素顔

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この兄弟にこの母あり

 平成4(1992)年6月24日、神奈川県逗子市に暮らす82歳の女性が急逝した。長男は作家で政治家、次男は人気俳優で歌手、実業家。昭和の日本社会に多大な影響を与えた“石原兄弟”の実母、光子さんである。

 兄の慎太郎氏は昭和31(1956)年1月、大学在学中に『太陽の季節』で芥川賞を受賞。賛否両論を巻き起こし、作品に登場する裕福で奔放な若者たちは「太陽族」と呼ばれた。同年5月公開の映画化作品では弟の裕次郎氏と映画デビューも果たすが、この時の裕次郎氏はまだ端役だった。

“裕次郎の時代”は、2カ月後に封切られた「狂った果実」から始まる。原作者で脚本も担当した慎太郎氏は、裕次郎氏の主演を強く推したという。以後、石原兄弟は文字と映像、音楽の世界で華々しく活躍。政界にも進出した慎太郎氏は、東京都知事、環境庁長官、運輸大臣を歴任し、平成14(2002)年2月に89歳で死去した。

 一方、裕次郎氏は石原プロモーションを率いて芸能界の重鎮となるが、昭和53(1978)年の舌がん罹患発覚からは闘病に関するニュースが増える。3年後には解離性大動脈瘤で生還率わずか数パーセントの手術に成功。しかしその後も肝臓がん罹患などに見舞われ、ハワイで静養生活に入った。52歳での死去は昭和62(1987)年7月17日、体調不良で緊急帰国した数カ月後のことである。

 その死は光子さんよりも早かった。光子さんは著書『我が息子、慎太郎と裕次郎』(『おばあちゃんの教育論』)などでその子育てを語っているが、光子さんは裕次郎氏の葬儀に参列していない。果たしてその真意とは。光子さんが死去した当時、慎太郎氏が「週刊新潮」に語った言葉は、この兄弟にこの母ありの印象を強くすることだろう。

(以下、「週刊新潮」1992年7月9日号「墓碑銘」を再編集しました。文中の肩書きは掲載当時のものです)

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本当に息子孝行な亡くなり方

「とにかく痛烈な人でした。孤高、というのもちょっとあてはまらないし、一種のニヒリストでしたね」

 と、石原慎太郎代議士は淡々とした口調で語る。

「弟の葬儀にも参列しなかったし、私の息子の結婚式にも出席しなかった。決して仲が悪いとか、そういうのではないんです。弟に関しては彼が亡くなるすこし前に病院に見舞いに行きましてね。ああ、これはもう駄目だ、と思ったらしく、その場で別れを告げたという。息子達の結婚式についても、普段から、孫は孫だから、といっていましたからね。

 それと、あまり年をとってから人前に出たくない、老醜をさらしたくないという思いもあったようです。いわゆる男のマッチョとかマッチズムという奴なんですよ。女の場合は何というのか知りませんけれど」

 石原慎太郎、裕次郎兄弟の母堂・光子さんが、6月24日昼、消化管出血のため急逝した。この日、光子さんは逗子市の自宅で朝食をとった後、腹痛を訴える。救急車で鎌倉市内の病院に運ばれたが、その車中で息を引き取った。享年82。

 弔問に訪れた故・高見順氏の夫人、高間秋子さんがいう。

「でも、ボケもせず、寝たきりにもならず、本当に息子孝行な亡くなり方だと思います。時期も見事じゃないですか、慎太郎さんは政治家と作家の2つの顔を持っているでしょう。そのどちらにも負担をかけないで亡くなっている。牛歩戦術も終わった、月刊誌の仕事も一段落ついた、そういう時期だったんですからね。私もあんなふうに死ねたらと思うんですよ」

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