母はなぜ「石原裕次郎氏」葬儀に参列しなかったのか 「石原慎太郎氏」が明かした理由と「とにかく強烈」な素顔

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医者を探して真っ暗な道を走った兄弟

 兄は芥川賞作家、政治家として、弟は銀幕の大スターとして戦後の一時代を画した2人の息子を育て上げた光子さんは、広島県の厳島出身。父親は生糸商などを営む実業家だった。

 神戸市立第二高女を卒業後、東京の実践女子大専門部(師範科)へ進む。その一方で、画家になりたいという夢も抱いていた。花をモチーフにした一見怖いようなシュールな日本画を多く描いたという。

 23歳で、山下汽船に勤める石原潔氏と結婚。やがて、慎太郎、裕次郎兄弟が生まれるが、一家は父親の仕事の関係で、神戸、小樽、湘南と転居を重ねた。

「おふくろは、体はそれほど丈夫な方ではなかったんです。若い頃は腎炎を何度も患っていました。戦争中、親父が出征している時もそうでした。たまに発作が起こると、大人でも撥ねとばされるくらいの震えが来る。それを私と裕次郎の2人で押さえたり、灯火管制の敷かれた真っ暗な道を、医者をさがして町まで走ったこともあります。何軒かたずねたけれど、どこも起きてくれなくてね。ああ、帰ったらおふくろは死んでるんじゃないか、なんて心細くなったことがよくありました」(慎太郎氏)

 戦後、光子さんは新興宗教に入信。そのおかげなのか、見違えるように元気になったという。彼女は最後まで信仰を持ちつづけたが、後に慎太郎氏が日本の宗教研究についての本を著したのも、そうした体験が背景にあった。

裕次郎に高級品のヨットを買い与え

 母親としては、非常に子煩悩だった。

 もともと女の子が生まれたら、ピアノを買って情操教育をしようと考えていたが、生まれたのは男2人。そのため、湘南に引っ越してから、裕次郎氏がディンギー(一人乗りの、最も基本的なヨット)を買ってくれとねだった時も、

「女の子だったらピアノを買ってあげましょうといっていたんですもの。男の子にもそれに見合うものを買ってあげましょう」

 といって、当時の値段で、2、3万円もする高級品を買い与えた。兄弟と海との付き合いも、ここから始まったのである。

 昭和26(1951)年、夫の潔氏(山下汽船常務取締役)が脳溢血で死去。兄が大学1年、弟が高校2年の時だった。その後は、文字通り女手ひとつで2人の息子を育てた。

「多少の蓄えはあるとはいえ、経済的にも苦しい時期でした。置いていた女中もいなくなり、今までそんなことしなくていい人だったのが、洗濯桶でゴシゴシやっているわけです。その後ろ姿を見て、気の毒になりましてね。ちょうどその頃、初めて『文学界』に私の小説が載り、掲載料が入った。それで電気洗濯機を買ってあげたんです。おふくろ、喜びましてねえ。あれが一番の親孝行だったような気がしますね」(慎太郎氏)

 兄弟がそれぞれの分野で華々しく活躍するようになってからも、逗子の実家で一人暮しだった。半年ほど前から、腹にしこりのようなものがあると主治医に言われていた。しかし、医者嫌いの光子さんは、ついに一度も精密検査を受けることもなく、裕次郎氏のもとへ旅立った。

デイリー新潮編集部

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