【特別読物】「救うこと、救われること」(16) 川上未映子さん
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2022年、『ヘヴン』が英国ブッカー国際賞の最終候補になるなど、作品が次々に翻訳されて海外でも人気の高い川上未映子さん。SNSを通じて、海外の読者からも様々なメッセージが届き、その切実な思いに胸を熱くしたといいます。
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コロナ前から、#Me Too運動が起こったように、欧米でボーダーを問い直す動きが出てきて、アジアの小説も読んでみようと、マイナー言語である日本語で書かれた作品も欧米の文学のラインナップに入ったんです。その流れで、私の作品を含め多くの作品が翻訳されています。
もちろん、読者が増えるのは有り難いことなのですが、海外で読まれることがすごくいいことかというと、そうともいえません。欧米の日本文学の研究者にケーススタディとして読まれたり、ジャーナリストにアジアの文化の資料やテキストとして読まれるだけでは、やはり作家として飽き足りないんですね。
SNSで海外の読者の声が届く
ところが今はSNSがあって、世界中の読者がそれぞれのやり方で感想を送ってくれるのです。若い女の子達が、自分の実存を賭けてというか、切実な思いを込めて動画や写真とともに送ってきてくれて、胸が熱くなります。
例えばジャカルタの若い女性達は、「みんなで未映子の本を読んでいる」、「未映子のタトゥーを入れたよ」、「『ヘヴン』のカバーを顔にペインティングしたよ」って、写真を送ってくれたんです。彼女たちの渇望があって、彼女たちが感じた辛さとか悲しみで作品と繋がっていると感じました。こういう読者に本が届くことで私は支えられていると思いました。私の顔写真をヘアバンドにアレンジした画像を送ってくれたグループもいました。日本よりももっと抑圧されている女性達ですから、身を削って読んでくれている思いが伝わってくるのです。
インドの女の子もいればイスラエルの女性もいます。アジアだけでなく、イギリスや北欧からも無茶苦茶長いメッセージが届きます。国も世代も超えて、こんな辛い話を必要としてくれる人がいることに複雑な気持ちになります。
実は、以前、「未映子は昔めっちゃ読んでた。辛いときに読んでた。けど、今は読んでない」と言われたことがありました。それを聞いて私はすごくうれしかったんです。小説には、読まれなくなる、役目を終えることも、すごく意味のある大事なことだと思うんですね。卒業というのか、成長というのか、海外の読者にも壁を乗り越える時があって欲しいと思いました。
人間の無力さを書きたい
私は人間の無力さを書きたいと思うんです。どんな強者も、それはある光のもとでそう見えているだけで、いつか必ず誰もが弱く、無力になるのです。また、無力さはイノセンスそのものでもあります。イノセンスや弱さだけが発揮できる、人にとって大切なものがあるんです。
私のキャリアも20年近くになってきて、自分のオブセッションであるイノセンスが抱えるジレンマや矛盾といったものから、人間がどういう風に生きていくことができるのかを、私自身は書きたいのだなと、後から気がついたように思います。
自分の目の前にある課題を、アイデアやら挑戦やらいろいろ工夫して書いているのですが、村上春樹さんも言っておられたように、作家が書けるものってそう多くないのかもしれません。変奏ばかりというか。オブセッションは自分では選べないのかもしれませんね。
言葉を持たぬ存在に救われる
2年前に母を見送ったのですが、末期がんの母を前にして、今は生きているのに間もなくいなくなってしまうということが恐ろしくて、ただ震えていたんです。私は言葉の人間で、言葉で思考する以外に思考できないと考えてきたのに、言葉以外のものに圧倒されていました。
そのときに私が学んだのは、母と会話するときには、お天気とか、身体以外の外部の世界について話すということ。「どう?」って聞いても痛いか辛いに決まっていますから。星とか、空とか、風とか、光とか、頭上にあるそういったものに救いをお借りしたような気がします。
また、言葉を持たない自然のなかでも犬には本当に救われました。言葉を持ちながら死んでいく人間と、言葉を持たず、いずれ死んでいくけれどそれを認識しない哺乳類の、この2つが並んだときに、ちょっと言葉に出来ないような、ひれ伏したいような、気持ちになりました。鳥や木や光など意味のないもの、意味を求めないものに救われました。
母は本当に優しかった。プロテスタントで、利他の人で、100%のギバー(与える人)でした。プロテスタントのお葬式は召天式といって、ようやくキリストに会えるのだからいいことなんです。プロテスタントは死後イエス・キリストに会って、キリストと自分しかわからない特別な名前をもらうのだそうです。
母が亡くなるときに、牧師のミドリ先生に耳元で聖書の詩篇23篇を読んであげてくださいと言われてずっと読んでいました。天に召されてからはキリストと自分だけが知っている名前で生きていくのです。そこは言葉が生きている世界です。
母の召天式を見て、私も死ぬまでにはプロテスタントになろうかな、教会にちゃんと通おうかな、と思いました。もしも、信じられたら、ですが。
■提供:真如苑




