「河野洋平」氏が死去 「慰安婦談話」「台湾の空港で降機拒否」…新聞が書かないリベラル政治家の“功と罪”
自民党総裁や衆議院議長などを務めた河野洋平氏が6月8日に亡くなったことを、長男の河野太郎元外相が発表した。89歳だった。新聞各紙は訃報記事で“護憲リベラルの旗手”“アジア平和外交に徹した生涯”と悼んだ。昭和後期から平成にかけ政界の中心人物であったことには間違いないが、とりわけ外交姿勢を巡っては毀誉褒貶があった。
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河野洋平氏は父で農相を務めた一郎氏の地盤(旧神奈川3区)を引き継ぎ、1967年、30歳の時に自民党公認で初当選した。以後、2009年に政界を引退するまで14回連続当選の負けなし。だが、40年以上にわたる議員生活では、常に政治の中枢にいたわけではない。
“自民党のプリンス”と呼ばれた河野氏は、当選後、若手議員の中心的存在となったが、ロッキード事件を巡る「金権打破」を訴えて76年に自民党を離党。新自由クラブを立ち上げ代表を務めた。だが、10年後の86年に自民党に復党。93年には自民党総裁に就任するも、当時、自民は下野していたため首相にはなれなかった。
朝日新聞は復党後の河野氏についてこう書いている。
《92年に宮沢内閣の官房長官に就任。93年8月、内閣総辞職直前に、慰安婦問題で「慰安所における生活は強制的な状況の下での痛ましいものであった」と、初めて旧日本軍による「強制性」を認める「河野談話」を発表した》(朝日新聞:6月11日朝刊)
一方、産経新聞は河野談話についてこう記した。
《(平成)5年8月に官房長官として慰安婦に関する「河野談話」を発表。旧日本軍による慰安婦の「強制連行」を裏付ける証拠がないにもかかわらず、記者会見で慰安婦募集に強制性があったと述べ、禍根を残した》(産経新聞:6月11日朝刊)
朝日新聞が功績であるかのように評した河野談話が、産経新聞では「禍根を残した」と言われるわけだ。その談話の重要箇所は以下の通りだ。
「強制的」の資料はなかった
《慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった》
この談話以降、韓国は鬼の首でも獲ったかのように、ことあるごとに日本に謝罪を求め、世界中に慰安婦像をばらまいたのはご存じの通りだ。
当の河野氏は日本経済新聞に連載した「私の履歴書」(2004年12月25日付)で《この官房長官談話については、その後、厳しい批判も受けている。今の私は歴史の審判を仰ぐしかないと思っている》と書いている。
ちなみに、07年にはアメリカの下院議会に「慰安婦に対する日本政府の謝罪を求める決議案」が提出されるまでになった。
週刊新潮は07年3月22日号で「『従軍慰安婦』問題のガン『河野談話』はこうして作られた」という特集を組んだ。談話が出された当時、官房副長官だった石原信雄氏は、強制的に慰安婦にされたとする証拠探しに奔走したことを振り返っている。
《「官庁のものは全て当たったし、アメリカの公文書館にも人を出して探させたりしました。その中で、例えば軍が慰安婦の移送や慰安所の設置に関わったことを示す命令書は出てきたのです。でも、女性を強制的に連行したということを示す資料は出てきませんでした」》
にもかかわらず、なぜ河野談話は強制性を認めることとなったのか。これには元慰安婦16人に聞き取り調査を行ったことが反映されたと石原氏は話している。
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