【豊臣兄弟!】NHK大河ではとても描けない 信長が裏切り者の妻子たちに行った史上屈指の残忍な虐殺の中身
美人妻「だし」を含む三十数人が引き回しのうえ斬首
しかも、その後がさらにまずかった。
信長は村重が尼崎城に逃亡したのち、尼崎城と花隈城を明け渡せば、有岡城に残されている妻子らは助命する、という条件を出した。そこで重臣の荒木久左衛門ほか、有岡城にいた主だった部将たちは、妻子らを人質として残し、尼崎城にいる村重に、信長の条件を受け入れるように説得しに行った。
ところが、村重は信長が出した条件を受け入れない。本願寺が受け入れることを許さなかった、と書かれた史料もある。それを受けた久左衛門らは、人質の助命に尽くしていればまだよかったが、村重を説得できなかった久左衛門は、人質を捨てて自分だけ逃げてしまったのである。
ここで信長の怒りは頂点に達したらしい。信長は「伊丹城の人質を成敗するように、詳細に命令を出した」(太田牛一『信長公記』、中川太古訳)という。その「成敗」の内容が、この世のものとは思われないほど残忍だったのである。もちろん、『豊臣兄弟!』で描写することなど到底できない。
『信長公記』によれば、人質には幼子を抱える者も妊娠している者もいて、みな声を惜しまずに泣き悲しんで目も当てられず、それを見て涙を流さない人はいなかったという。人質のうち、最初に村重の身内の女性30人余りが京都に護送され、斬首された。もちろんそのなかには、『豊臣兄弟!』で山谷花純が演じている村重の24歳年下の美人妻、「だし」もいた。
「だし」は天性の美貌と貞淑さの持主だったと、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』に書かれている。また、同書によれば、村重の近親者36人は死刑判決を記した板を立てた荷車に乗せられて市中を引き回され、はなはだしい恥辱を受けたのちに、全員が斬首されたという。
だが、これは信長の「成敗」のなかで一番穏やかなものだった。
五百数十人を4つの小屋に押し込めて……
続いて、人質のなかでも地位のある者の妻子が選びだされ、処刑された。みなそれなりの身分の者の妻女だから美しく着飾っていたが、それを猛々しい武士が受け取り、幼い子を連れていれば抱かせたまま柱に括りつけ、磔にした。それから次々と鉄砲を撃ち、さらには槍や薙刀で刺して、122人の妻女たちを皆殺しにしたという。その際、彼女たちが悲しんでいっせいに叫ぶ声が「天にも届くほど」だったと『信長公記』は記す。処刑を目撃した人は同情の涙を禁じ得ないだけでなく、20日も30日も、殺された女性たちの顔が浮かんで、消えなかったという。
しかし、有岡城の人質としては、これでもまだマシな死に方だったのだ。人質にはほかに中級武士の妻子や侍女、その下で働いていた男性(若党)ら五百十余人がいた。内訳は380人が女性で、残りが男性だったという。その人たちは、まとめて殺された。では、どんな手がとられたか。
平屋の小屋が4軒建てられ、五百十余人は4つに分けてそこに押し込められた。続いて乾燥した草や柴、木材が大量に集められて家の周りに積まれ、火が点けられたのだ。
『信長公記』によると、風が吹いて火が廻るにつれ、人質たちは魚のように躍り上がっては跳び上がり、悲鳴は煙とともに空に響いたという。「地獄の鬼の呵責もこれほどかと思われた」と書かれている。また、『日本史』によると、生きたまま殺される人たちの悲鳴や叫喚に、周囲は恐怖に打ち震えたという。
織田信長は自分を裏切った者、とりわけ卑怯な手を使った者に対しては、このように容赦がない人物だった。それにしても『信長公記』の筆者の太田牛一ならずとも、「地獄の責め苦もこれほどまでか」と思わずにはいられない。だが、この報復が荒木村重にとってよほど堪えたか、といえば、堪えたとは言い切れない。
というのも、村重は本能寺の変で信長が斃れた後も数年生き、堺(大阪府堺市)などで茶人としてそれなりに重用されたのだ。自分のせいで惨殺された数百人のことは、心の重荷にならなかったのだろうか。




