「米国大会まであと45分」の檄が招いた“ドーハの悲劇”…W杯と日本代表をめぐる光と影の珠玉トリビア 実は第1回ウルグアイ大会に日本も招待されていた

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逆効果だった!? “ドーハの悲劇”、ハーフタイムでの檄

 Jリーグが開幕した1993年10月、日本はW杯アメリカ大会への予選に挑み、その最終戦で2-1で勝っていたところをロスタイムで追いつかれ、初の本選進出を寸前で逃した。冒頭でも触れた、余りにも有名な“ドーハの悲劇”である。

 日本で待機していたテレビ中継のスタジオは、お通夜状態に。NHK BSの解説者は「やっぱり僕、中継中にも……」と切り出すも、「……すいません」と涙で声を詰まらせ、後が続かなかった。

 今でも敗因(引き分けなので、正しくはその原因だが)を巡る考察は多い。終盤のボールキープの甘さや処理の甘さを指摘する声もあれば、後日のワイドショーでは、後半、試合が止まった時間と、実際のロスタイムは本当に同じ長さなのか検証していた。当日のドーハ(カタールの首都)の気温が30℃を越えていただけに、試合前のウォーミングアップ時に選手がウィンドブレーカーを着ていたことがスタミナ減少に繋がったとするという声などもある。だが、この大一番で、ハーフタイムに起きていたことを報じる資料は少ない。

 1-0と、日本が1点リードしてのハーフタイム、当時の監督のハンス・オフトは、1つだけ注意をするつもりだった。それは、日本の守備が悪く、相手のイラクのエースである背番号8(アーメド・ラディ)が極めて自由に動けていることへの留意だった。全員に伝えねばならず、その着替えを待ち終わったオフトは、先ず、ボードに貼った白い模造紙に、こう書いた。

『45 minutes USA』(※2)
 
 このままスコアを守り切れば、アメリカでの本選出場まで、あと45分だという意味だ。ところが選手たちが極度の興奮状態にあり、ただでさえ騒然としていたロッカー内は、この掲示で更に蜂の巣をつついたような大騒ぎに。オフト監督が3回も「Shut Up(黙れ)!」と叫び、果てはボードを蹴り上げるほどだった。その瞬間、後半開始を告げるブザーが響き、選手たちはグラウンドに。オフトの指示は、選手に伝えられることはなかった。

 後半開始9分、イラクのゴールが決まり、日本は追いつかれた。決めた選手の背番号は8だった(※3)。

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