「米国大会まであと45分」の檄が招いた“ドーハの悲劇”…W杯と日本代表をめぐる光と影の珠玉トリビア 実は第1回ウルグアイ大会に日本も招待されていた
北朝鮮代表に間違われた!?
その後、日本は1938年の第3回W杯(フランス大会)にエントリーされたが、こちらは日中戦争により不参加に。1954年から断続的に予選に出場するも、他のアジア勢に本選出場は阻まれた。一方で、1964年の東京五輪ではベスト8に入ったため、2年後、予選から不参加だったイングランド大会の決勝を五輪メンバーで観戦したことがあった。
監督の長沼健曰く、「ご褒美のつもり」だったが、もちろん視察も兼ねていたのは言うまでもない。すると、会場に入るなり観客から大拍手で迎えられた。健闘を讃える声もあり、おかしいなと思ったという。同大会でベスト8に入った北朝鮮代表チームと勘違いされていたのだった。
1973年、予選準決勝でイスラエルに敗れ、本選出場を逃した際は、日本のメディアにはっきりと、こう報じられている。
〈一人一人の技術や体力、試合経験の差がはっきりと出た〉(読売新聞。1973年5月27日付)
ジーコは大臣の座を投げ打って、日本で復帰した
そんな日本にとってのジャンピングボードとなったのが、1993年のサッカーのプロ化、いわゆるJリーグ開幕だろう。Jリーグの機構自体は91年に発足していたが、その開幕に向け、日本の住友金属工業蹴球団(後の鹿島アントラーズ)からオファーを受けたのが、ブラジルの大スター、ジーコだった。
ところがジーコは、1989年3月に現地で引退試合を行っており、翌年には時の大統領の肝煎りで、スポーツ担当大臣を拝命していた。つまり、もう選手ではなく、閣僚だったのである。因みにこの時の大統領は国民投票で選ばれており、人気者かつブラジルの顔であるジーコを大臣に任命するのは、極めてソツがないチョイスと言えた。
しかし、ジーコ自身はその座を捨てて、住友金属からのオファーを快諾。2年後に開始されるJリーグの理念の一つである「サッカーを通じての地域社会の振興」に魅せられたという。確かに、幼少時から誰もがサッカーに親しむブラジルでは、あり得ないコンセプトだった。
いざ復帰してみれば、開幕したばかりのJリーグで初のハットトリックを達成し、その年、所属の鹿島アントラーズを優勝に導いた。しかし、それより特筆すべきは、前身の住友金属時代からのピッチ外でのチーム強化活動だろう。
チームのロッカー室にシューズが無造作にちらばっていると、「明日もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と、自ら整理を始めた。併せてホペイロ(用具係)を雇うことも提言。寮生活の選手がお菓子を買って来ると、「プロにお菓子は必要ないはずだ」と、チームに上申した。粗雑だったグラウンドの整備はもちろん、選手が練習後に風邪をひかぬよう、シャワールームを作らせた。反面、Jリーグ開幕前の自身は、顔が知られてなかったこともあり、東京の自宅から鹿島まで、電車と高速バスで“通勤”していた。「若かったクラブチーム時代が甦って来るね」と喜び、こうつけ加えた。
「日本の電車やバスは凄いね。必ず時間通りに来る。僕の性格にピッタリだ(笑)」
ジーコは来日後、当初の契約通り3年で引退したが、地元の鹿島にはその銅像が2つ建てられた。うち一つ、ショッピングセンター内の通称「ジーコ広場」に建てられた銅像の台座には、以下の日本語が大きく刻まれている。
〈ありがとうジーコ〉
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