没後17年、再び脚光 「津軽海峡・冬景色」「時の流れに身をまかせ」5000曲を遺した三木たかしさんの素顔
見抜いたテレサさんの本質
9年後の1986年、三木さんは「時の流れに身をまかせ」(作詞・荒木とよひさ)をつくる。台湾生まれでアジアの歌姫であるテレサ・テンの作品だ。「つぐない」(84年)、「愛人」(85年)も三木さん、荒木氏の作品である。
三木さんとテレサさんが初めて会ったのは1984年。当時のテレサさんは79年の不正パスポート問題の影響で日本に自由に入国することが出来なかった。
この問題はテレサさん個人の不祥事として語られることもあるが、実際には複雑。1972年に日本と中国の間で国交が樹立されたため、テレサさんの台湾のパスポートでは入国が難しくなった。このため、周囲がインドネシアのパスポートを用意してしまう。これが問題化した。
「当時のテレサさんが日本滞在を許されたのは1年のうち3、4週間。だからテレビなどに出るのは難しく、プロモーションは有線放送に頼るしかなかった。そこで三木さんは有線放送の特性を考え、何度聴いても飽きられない作品をつくった。『時の流れに身をまかせ』もそう。地味とも受け取れる曲なので、レコード会社から何度もつくり直すよう言われましたが、本人は頑として応じなかった。『これは静かな情熱の歌なんだ』と訴えた」(花畑代表)
三木さんはテレサさんの人物評をこう語っていた。
「おびえと情熱、謙虚さと信念が同居していた。あんな目をした人はほかにいなかったそうです」(花畑代表)
三木さんと荒木氏による3作品は中国語版もリリースされた。それもあり、1980年代のテレサさんは中国本土でも絶大な人気を誇った。ただし、その歌声を放送で流すことは禁じられた。理由は「精神汚染の源」だから。しかし、テレサさんが台湾出身者で、強い影響力があったからというのが定説だ。
やがて三木さんのテレサさん評は正しかったことが分かる。中国本土で自由を求める機運が高まった1989年、香港で中国民主化運動に加わった。「軍管反対」という主張を体に貼り付け、デモで先頭に立った。
身の危険や歌手活動への悪影響を心配する声も上がったが、本人はまったく怯まなかった。香港で開かれた民主化運動を支援するチャリティーコンサートには「民主萬歳(万歳)」と書かれたヘッドバンドを巻いてステージに上がった。
6年後の1995年、三木さんはテレサさんのための新曲をつくっていた。もうすぐ完成だった。そんなとき、テレサさんがタイで病死したとの連絡が入る。テレサさんが歌うはずだった新曲のタイトルは図らずも「忘れないで」。まだ42歳だった。
三木さんはテレサさんの没後、こう漏らしていたという。
「テレサさんは歌わないと生きられない人だった。彼女にとって歌は仕事ではなく、体の一部だった」
三木さんも同じだったのではないか。趣味はゴルフと囲碁、数独くらい。歌手と世間が喜ぶ曲をつくるのが生きがいだった。
三木さんの遺した曲はあらためて評価されている。昨年6月、代表曲61作品が収められた3枚組みCDアルバム「三木たかしソングブック」が発売されると、同年のレコード大賞の企画賞に輝いた。この記事に書いた作品のほか、1977年に岩崎宏美(67)が歌った「思秋期」(作詞・阿久悠)や88年発売の「アンパンマンのマーチ」などが収録されている。
作品のカバーもいまだ絶えない。花畑代表によると、年10曲程度の申し込みがある。
「時の流れに身をまかせ」は実に約50人がカバーした。桑田佳祐(70)や夏川りみ(52)らが歌った。
花畑代表の役割は三木作品の輝きが失われないようにすること。音楽業界は若いころから音楽一筋という人が多いが、花畑代表は56歳まで毎日新聞社のビジネス部門に勤務していた。このほど単行本を上梓したが、そのタイトルも自分が音楽界の人間ではなかったことから『部外者の流儀』(JTBパブリッシング)である。
「三木さんの名前が常にどこかで語られているようにしたい」
三木さんはそれに見合う仕事をした人だろう。存命なら81歳だった。
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