没後17年、再び脚光 「津軽海峡・冬景色」「時の流れに身をまかせ」5000曲を遺した三木たかしさんの素顔
阿久悠さんのやさしさ
そんな三木さんの窮状を心配したのが、のちに「津軽海峡・冬景色」を一緒につくる阿久悠さんである。三木さんより8歳年上。仕事においては厳しいが、普段はやはり人格者で、情の深い人だった。実直な人柄で才能ある三木さんを阿久さんは放っておけなかった。
阿久さんはまず自分が審査委員長を務めていた日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」(1971年)の審査員に三木さんを加えた。気分転換になると考えたらしい。阿久さんは同じ創作者として三木さんの苦悩がよく分かったのだろう。
三木さんがなんとかスランプを脱したのは約2年後。復帰第1作として「コーヒーショップで」(1973年)をつくった。あべ静江(74)のデビュー曲だ。これも「阿久さんがお膳立てしてくれた」(花畑代表)という。
最初はレコード会社から阿久さんに詞の依頼があった。そのとき、阿久さんは「たかしちゃんが曲をつくるなら、書きますよ」と即答する。レコード会社は別の作曲家を考えていたが、先にこう言われては従わざるを得ない。
結局、この作品はヒットチャートで9位にランクインするヒットとなり、今も聴き継がれている。学園紛争の季節が終わった当時の大学周辺の情景が浮かんでくる名曲だ。あべの2曲目「みずいろの手紙」(同)も2人でつくり、これもヒット。三木さんは長いトンネルを脱けた。
それから3年後の1976年、歴史的名曲が生まれた。当時18歳だった石川さゆりによる「津軽海峡・冬景色」である。<上野発の夜行列車おりた時から-->。津軽海峡を越えて故郷の北海道に帰る女性を描いた作品だ。
「石川さんにとって1学年下である山口百恵さんや森昌子さん、桜田淳子さんが脚光を浴びていた時期でした。三木さんは努力を惜しまない石川さんの真っ直ぐな姿に心打たれ、彼女の個性を生かせる作品を阿久さんと一緒につくろうと懸命になった」(花畑代表)
シングル盤3枚が生まれた。しかし、いずれもヒットと結び付かなかった。それでも三木さんと阿久さんは石川を成功させることをあきらめなかった。今度はアルバムをつくる。少女が大人の女に変わるまでをコンセプトにした「365日恋もよう」(1976年)である。
収録された全12作品のうち、前半6作品は阿久さんが先に詞を書いた。詞先と呼ばれる方式だ。後半6作品は三木さんが先に曲をつくった。曲先である。「津軽海峡・冬景色」はアルバムの最後の作品。曲先だった。
「阿久さんから三木さんへのリクエストはたった1つ。この作品は1番と2番がありますが、どちらの最後にも『津軽海峡・冬景色』という歌詞が入るようにしてほしいというものでした。三木さんの頭の中では自身が16歳の冬に経験した北海道への旅が蘇ったそうです」(花畑代表)
この作品は最初、シングルカットの予定がなかった。初披露の場は同年10月に大阪・新歌舞伎座で開かれた石川のワンマンショー。この作品が歌い始められた途端、観客たちの表情が一変した。驚いた顔、あっけに取られたような面持ちになった。
石川が歌い終えた途端、嵐のような拍手と大歓声が起こる。その日のうちからシングル盤の発売予定を尋ねる電話がレコード会社に相次いだ。急きょ1977年1月のシングル盤発売が決定する。
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