「なるほど、8頭身のサザエさんもあるのね」 生みの親・長谷川町子さん、関係者が語った“物静かでマスコミ嫌い”の素顔

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美人でおとなしい女性

 大正9(1920)年、佐賀県多久市に三人姉妹の次女として生れた長谷川さんは、少女時代を福岡市で過ごす。14歳の時、元三菱炭鉱の技師だった父親が亡くなり一家で上京。山脇高女(現・山脇学園高校)在学中に田河水泡氏(1989年没)に弟子入りするが、やがて故郷の福岡に疎開し、西日本新聞社の絵画部に勤めた。

 同社の記者だった柳猛直氏によれば、

「当時の絵画部は、戦後の抽象画の大家である宇治山哲平氏(1986年没)がキャップを務め、彼女はその下でルポルタージュの挿絵やカットなどを描いていました。美人でおとなしい方でしたね。召集された知人のために、日の丸に虎の絵を描いて欲しいと頼むと、可愛らしい張子の虎を描いてくれたりした。編集局の中には、そんな長谷川さんに惚れて、女房と別れても一緒になるという者もいましたよ」

 終戦と同時に西日本新聞社を退社するが、昭和21(1946)年、同社から「夕刊フクニチ」が創刊され「サザエさん」の連載がスタート。人気は抜群で、他の夕刊紙を圧倒した

物静かだが辛辣な一面も

 その後、長谷川さん一家はふたたび上京。毬子さんとともに「姉妹社」を設立して、初版2万部で「サザエさん」第1巻を出版した。

「ところが、昭和24(1949)年から朝日新聞に連載が移ることになり、そのころフクニチの東京支社にいた私は、本社から長谷川さんを引き留めるよう命じられた。しかし、彼女は原稿料の値上げを要求し、どうしても朝日に移るといって譲りませんでした。こちらの東京支社長も『サザエさん』はウチで育てたんだから、とかなり強引な説得をしたんですが、そんなことをいわれる筋合いはない、と突っぱねられましたね。まだ連載中なのに、マンガにその支社長の実名を出してからかったりもした。物静かな人でしたが、なかなか辛辣なところもありました」(前出の柳氏)

 作品がテレビ化された場合も殆ど口は出さなかったが、どこかで原作を超えては困るという思いがあったようで、

「たとえば、サザエさんに星野知子を起用します、と伝えた時も、なるほど、8頭身のサザエさんもあるのね、といっていたし、青島幸男氏の『いじわるばあさん』についても、あれは私のいじわるばあさんではありません。青島さんの青島ばあさんです、とおっしゃっていた」(フジテレビ関係者)

一種の天才だった

 国民的キャラクターの生みの親でありながら、徹底したマスコミ嫌いでも有名だった。人付合いもほとんどなく、晩年は毬子さんと2人、自宅で野良猫や小鳥の世話に明け暮れた。

 平成3(1991)年6月、日本漫画家協会・文部大臣賞の表彰式が、公の席に姿を見せた最後となった。

「一種の天才でした。天から授かった才能があまりに大きすぎて、随分過酷な人生を送ったように思いますね。一生独身だったし、精神的にも肉体的にも苦しい連載を続けなきゃいけなかった。本人も、何度もやめたいと悩んだようです。以前、彼女は胃潰瘍で東京女子医大に入院したことがあったんですが、手術をした中山恒明先生によれば、実はあれはガンだったらしいんです。本人は知らずに退院したみたいですね。もっともあれから再発することもなく、この年まで長生きされたんだから、本当に早期のガンだったんでしょう」(漫画家の加藤芳郎氏)

 賑やかなサザエさんのイメージとは裏腹に、ひっそりとこの世を去った。

デイリー新潮編集部

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