【風、薫る】悪しき伝統? 見上愛「りん」の実習先「東大病院」の前身は朝ドラで描けないほど「ダメ」だった
これが東大病院の前身か?
梅岡女学校附属看護婦養成所で学ぶ一ノ瀬りん(見上愛)や大家直美(上坂樹里)らは、第7週「届かぬ声」(5月11日~15日放送)から、帝都医科大学附属病院で看護婦見習いとしての実習に励んでいる。だが、医師たちは彼女たちをぞんざいにあつかい、病院の「看病婦」たちも実習生のことを露骨に煙たがる。NHK連続テレビ小説『風、薫る』。
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そうなのだ。病院で働いているのは看護婦ではなく「看病婦」で、彼女たちには医療や衛生に関する知識がほとんどなく、医者の指示で下働きをしているにすぎない。病人を看護するための専門の訓練を受けた「看護婦見習い」が疎ましくて仕方ないのだ。
しかし、第8週「夕映え」(5月18日~22日放送)で、りんは乳がんの手術を受ける華族・千佳子(仲間由紀恵)の看護を担当し、最初は邪険にあつかわれながら次第に信頼を勝ちとる。そして第9週「看病婦とアメ」(5月25日~29日放送)では、医師たちも見習い生たちの働きを認めることになる。
帝都医科大学附属病院のモデルは、帝国大学医科大学附属第一医院(以下、第一医院)で、東京大学医学部附属病院の前身にあたる。史実においても、桜井女学校附属看護婦養成所の第1期生である大関和(りんのモデル)や鈴木雅(直美のモデル)ら6人は、明治20年(1887)ごろからこの第一医院で看護婦見習いとして1年間の実習に励んだ。
そのころも旧加賀藩上屋敷跡(現・東京大学本郷キャンパス)にあった第一医院は、当時から日本で最高峰の病院ではあった。しかし、『風、薫る』で描かれたように、医師たちは権威主義的で、看病婦は無知のまま立ち働いていた。日本にとってはまだ、西洋式の医療の黎明期だったから致し方ないのだろう。とはいえ現代の感覚からすると、「これが東大病院の前身か?」と驚くほかない状況だった。
看病婦の供給源は吉原のやり手婆
第一医院の起源は、安政5年(1858)に天然痘の治療や予防のために設立された種痘所にまでさかのぼる。明治9年(1876)に病院が下谷和泉橋通り(現・台東区上野)から本郷(現・文京区本郷)に移転。翌々年に神田にも附属病院が設立され、それを機に本郷の病院が第一医院、神田の病院が第二医院と呼ばれるようになった。
実習生たちはそこで医師に付き従い、薬のあたえ方、包帯の巻き方、患者の運び方、清拭のし方、汚物のあつかい方……など、さまざまな事柄について実地で指導を受けることになった。第一医院は規模も日本最大級で、当時としては最先端の医療機器も取りそろえられていた。むろん、すべての医師たちが西洋医学を習得している、とされていた。
ところが、実習生たちは早々に、ネガティブな意味で驚くことになった。多くの医師は序列を強く意識し、尊大で、ほかの職員や患者を見下している。質問するだけで不機嫌になるような医師も多い。また、看病婦のことは雑用係というほどにしか見ていない。だが、看病婦たちの実情といえば、そうあつかわれても仕方ない水準だった。
当時の看病婦は、年齢が40歳以上と定められていた。入院患者に多かったのは男性の兵士だったので、若い女性が働くことが懸念されたのだという。では、40歳以上の女性をどこから集めてきたか。
看病婦は看護婦のような専門職とは認識されていなかった。実際、下働きのようなことしかさせられず、いわゆる「下の世話」が中心だというイメージだったので、なり手がいなかった。そこで初期に声がかけられたのは、吉原の「やり手婆」、すなわち遊郭で女郎を監督したり、客と女郎をつないだりした年配の女性で、彼女たち自身、女郎出身であることが多かった。
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