【豊臣兄弟!】秀吉はかけがえのない信長の重臣 いくらドラマでも死罪宣告はやりすぎだ

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秀吉が死罪を命じられるのは2度目だが

 武田信玄(高嶋政伸)亡きあと、織田信長(小栗旬)にとってやっかいな存在は上杉謙信(工藤潤矢)だった。その謙信が能登(石川県北部)に侵攻し、さらに南下しようとしたため、七尾城(石川県七尾市)を守っていた長続連は信長に救援を求めた。信長も謙信の南下は食い止めたいので、同じ北陸の北庄城(福井市)を居城とする柴田勝家(山口馬木也)を総大将とする、4万の援軍が送られた。天正5年(1577)8月のことだった。

 この戦いは、結論を先にいえば、七尾城が落城したのを知らずに突き進んだ織田軍が、翌9月に手取川(石川県白山市)で、1,000人以上の戦死者を出す大敗を喫している。

 NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第19回「過去からの刺客」(5月17日放送)では、羽柴秀吉(池松壮亮)が、勝家が総大将を務める上杉攻めに加わった。上に記したのはこの「上杉攻め」のことである。そしてドラマで描かれたように、作戦をめぐって秀吉は勝家と対立し、戦線を離脱するという賭けに出る。

 第20回「本物の平蜘蛛」(5月24日放送)では、秀吉が勝手に帰陣してしまったのを知った信長の、怒りの咆哮が響き渡る。しかも、怒りが頂点に達した信長は、秀吉に「死罪」を宣告してしまう。

 信長が秀吉に死罪を申し渡す場面が描かれるのは、『豊臣兄弟!』ではこれが2回目になる。前回は第16回「覚悟の比叡山」(4月26日放送)で、比叡山延暦寺の焼き討ち後のことだった。信長が延暦寺焼き討ちを明智光秀(要潤)に命じた際、志願してそれに加わった秀吉だったが、いざ比叡山に入ると、女性や子供たちは逃がそうとした。それがバレて信長は秀吉に切腹を命じたのだ。

 たしかに軍令違反は、戦国時代には重い罪とされた。戦国時代の合戦は、主君にとっても家臣にとっても家の存亡がかかっていた。それだけに組織の規律が重視され、背けば重い罪を課せられることも珍しくなかった。

 しかし、信長がいくら苛烈な性格だからといって、すでに織田家の重臣になっている秀吉に、死罪を命じたとは考えられない。

軍令違反で重臣に死罪、は例がない

 たとえば、徳川家康の後継者の秀忠が、関ヶ原に向かう途上で真田昌幸が守る上田城を攻めた際のこと。秀忠は父から「上田城を深追いせず急いで西進せよ」と命じられていたが、小競り合いが「深追い」に発展し、結果的に、秀忠の軍は関ヶ原合戦に遅参してしまった。このとき、秀忠に帯同していた家康重臣の本多正信は、現場を指揮していた大久保忠隣の隊の旗奉行、杉浦惣佐衛門に切腹を命じている。

 しかし、これほど重い処分は例外で、一般にはもっとも重い処罰で改易(所領没収)、続いて蟄居や謹慎、または一時的な隠居(家督を子などに譲らされる)などだった。

 ましてや、秀吉はすでに織田家の重臣であった。天正元年(1573)9月1日に浅井家が滅亡すると、その旧領の北近江(滋賀県北部)3郡12万石を所領としてあたえられ、琵琶湖岸に長浜城を築いていた。すでに城持ちの大大名だったのである。しかも、浅井家の本拠地であった小谷城(滋賀県長浜市)を落城させたのは、まさに秀吉の功績で、それこそ織田家の存亡が秀吉にかかっている面があった。

 秀吉が勝家のもとから勝手に帰陣したのも、織田家における自分の力を知っていればこそ、であろう。そして信長も、そういう秀吉に頼っている以上、死罪を申し渡すことなどできたはずがない。

 実際、太田牛一の『信長公記』にも、次のように書かれているにすぎない。〈羽柴秀吉は柴田勝家と意見が合わず、許可も得ずに陣を解いて、引き揚げてしまった。信長は、けしからぬことと激怒した。秀吉は進退に窮した〉(中川太古訳、以下同)。

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