【豊臣兄弟!】秀吉はかけがえのない信長の重臣 いくらドラマでも死罪宣告はやりすぎだ

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重臣の佐久間信盛は追放されたが

 延暦寺が焼き討ちされた元亀2年(1571)9月には、秀吉はまだ城持ち大名ではなかった。とはいえ、前年に浅井長政に裏切られて越前(福井県北東部)から逃げた「金ヶ崎の退き口」で殿(しんがり)を務めて以降、織田家の重臣としての地位をたしかなものにしていた。織田家になくてはならない家臣に対し、信長が切腹を命じるわけがない。

 それに、秀吉が延暦寺で女や子供を助けようとした、ということ自体、ありえなかった。要は、秀吉を「いい人」に描きすぎている。一例を挙げれば、柴田勝家のもとから無断退却した4カ月後の天正5年(1577)12月、秀吉は毛利攻めを担当し、毛利家にとって最前線の城だった上月城(兵庫県佐用町)を攻め落とした。

このとき城兵を虐殺したのはもちろん、毛利家への見せしめとして、城内にいた女性を磔刑に処し、子供を串刺しにしている。目的のためには手段を選ばないのが秀吉で、だからこそ、のちに天下をとれたのである。

 信長が重臣を罰した例はある。天正8年(1580)8月、信長は父の信秀の代から織田家に仕え、筆頭家老であり畿内方面の軍団長でもあった佐久間信盛に「19カ条の折檻状」を突きつけた。織田家から追放された信盛は、嫡男の信栄と少数の家臣とともに高野山に入っている。天正4年(1576)以降、大坂本願寺の最前線をまかされながら、成果が少なかったことが原因だとされる。

「19カ条の折檻状」には、「30年も奉公しながら比類ない功名が一度もない」という旨が記されている。大げさな表現だが、おそらくは小さなわだかまりが重なった結果だと思われる。

 いずれにせよ、信長は信盛のことが、よほど気に入らなくなったと思われるが、それでも処分としては、せいぜい追放であった。信長ほどの戦略家が、天下一統のためにその能力が欠かせない秀吉に、怒りにまかせて死罪を命ずるなど、あろうはずがない。

信長は謀反人も説得しようとした

 信長は力がある武将は尊重した。天正6年(1578)10月、三木城(兵庫県三木市)の攻防戦で秀吉の軍勢に加わっていた荒木村重が、突如、居城の有岡城(兵庫県伊丹市)に籠って、信長に反旗をひるがえした。そのときの信長の反応は、『信長公記』によれば、以下のようなものだった。

〈信長はただちには信じがたく、「何の不足があってのことか。言い分があるのなら、申し出るがよい」と、松井友閑・明智光秀・万見重元を派遣して伝えさせた。返事は「野心は少しもございません」とのことだったので、信長は喜び「母親を人質としてこちらへ預け、差し支えなければ出仕せよ」と伝えた。しかし、実のところ荒木は謀反を企てていたので出仕しなかった〉

 謀反を起こしたと聞いても、言い分を聞こうとしている。また、謀反を企てたとハッキリしたのち、まだ説得を試みている。

〈ここでも信長は、明智光秀・羽柴秀吉・松井友閑を派遣して説得させたが、荒木は応じなかった〉

『豊臣兄弟!』では、延暦寺の焼き討ち後に「切腹」を命じられたときは、秀吉は弟の秀長(仲野太賀)とともに、命を賭して浅井方だった宮部継潤を調略し、織田方に寝返らせようとした。勝手に帰陣したあとは、反旗をひるがえした松永久秀(竹中直人)を、まさに命がけで説得しようとする。

 信長から死罪を命じられた、という設定にしたほうが、ドラマではその後の秀吉や秀長の行動に切迫感が生じて、都合がいいのはわかる。しかし、信長の判断はもっと戦略的で、怒りにまかせて、大事な重臣に死罪を命じたりはしなかった。秀吉はもっとしたたかで、主君のためには命をも惜しまない忠義な武将などではない。自分が得をするために行動し、そのためには手段を選ばなかった。

 信長は激烈で、秀吉は明るいお調子者、というのは歴史ドラマでお決まりのパターンではあるが、ともにもっと戦略家だった。『豊臣兄弟!』を見るときも、その辺りは頭に入れておいたほうがいい。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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