虎党が思わず「何で出した?」 新天地で開花した阪神流出組の系譜

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西武で見事復活

 ドラ1組の投手では、2001年に即戦力右腕として入団した藤田太陽も、阪神時代は不遇の日々を送っていた。

 1年目は開幕投手候補に挙げられながら、キャンプ初日に野村克也監督の指示を受けたコーチから二段モーションを矯正され、社会人時代のフォームを見失ってしまう。さらに肘と右足の故障も追い打ちをかけ、新人王どころか、登板3試合、0勝1敗、防御率14.73という期待外れの成績に終わった。

 その後も在籍8年余りで通算5勝9敗と伸び悩んでいたが、09年シーズン途中、水田圭介との交換トレードで西武に移籍したことが吉と出る。

 新天地で中継ぎ、抑えとして働き場所を得た藤田は、翌10年には自己最多の48試合に登板し、6勝3敗19ホールドの好成績を残した。

 11年にドラフト1位で入団した榎田大樹も、1、2年目はセットアッパーとして活躍したが、左肘の手術後は精彩を欠き、最終年の17年は登板3試合に終わった。

 だが、翌18年のシーズン開幕直前、岡本洋介との交換トレードで西武に移籍すると、見事復活を遂げる。本拠地・メットライフドームとの相性の良さもプラスとなり、22試合に先発して初の二桁勝利となる11勝をマーク。同年、17年ぶり最下位に沈んだ古巣・阪神と明暗を分けた。

阪神ファンのぼやきがさらに大きくなることも

 打者では、阪神時代に控え捕手だった北川博敏の名が上がる。

 1995年にドラフト2位で阪神に入団し、強打を売りに“田淵2世”と在阪マスコミに持ち上げられたが、当時のチームは山田勝彦、木戸克彦、関川浩一ら強力なライバルが多く、なかなか出場機会に恵まれなかった。

 さらに98年に中日から矢野輝弘、00年には野村克也監督の息子・カツノリも加入し、ますます出番がなくなった。00年は出場10試合の7打数無安打に終わり、プロ6年間で本塁打もゼロ。いつ戦力外になってもおかしくなかった。

 それでも腐ることなく、2軍で日々努力を続ける北川の姿を、2軍監督時代の近鉄・梨田昌孝監督が見ていた。ウエスタンの試合で対戦した北川の明るい性格と野球に取り組む姿勢に惚れ込み、「こういうヤツがチームにいてくれたら」と獲得に動いた。ここから野球人生が大きく花開く。

 翌01年、3対3のトレードで近鉄の一員になった北川は、4月28日のダイエー戦で待望のプロ初本塁打を記録し、1軍に定着。9月24日の西武戦では松坂大輔から代打本塁打を放ち、逆転勝利に貢献すると、同26日のオリックス戦では3点ビハインドの9回にNPB史上初の代打逆転満塁サヨナラV決定弾を放ち、チームを12年ぶりのリーグ優勝に導いた。

 同年の近鉄では、阪神にドラ1で入団後、自律神経失調症を患い、99年限りで戦力外になった北川の同期・山村宏樹も、先発として自己最多の7勝を挙げてV戦士になった。

 一方、二人の古巣・阪神は同年、就任3年目の野村監督をもってしても結果を出せず、4年連続最下位に沈んだ。

 チームを出ていった選手が他球団で大活躍するのは、阪神ファンにとって複雑な思いかもしれない。だが、当の選手にしてみれば、どの球団であれ、出場機会が増え、自身をアピールできるに越したことはない。逆に、阪神に来て大化けした大竹耕太郎のような例もある。

「なぜ出したのか」と惜しまれる移籍は、裏を返せば、それだけ選手の力が新天地で引き出された証でもある。島本や井上がこのまま存在感を増していけば、阪神ファンのボヤきはさらに大きくなるかもしれない。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘! 激突! 東都大学野球』(ビジネス社)

デイリー新潮編集部

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