急死しなければ歴史は変わっていた戦国武将は、武田信玄だけじゃない もう1人の名前は
謙信の急死に救われた信長
ところが、天正6年(1578)3月13日、上杉謙信は急死してしまう。享年は数え49だった。なにしろ、3月15日から遠征に出る予定で、その準備をしている最中の3月9日に突然倒れ、昏睡状態が5日間続いた末に息を引き取ったという。文字通りの「急死」であった。
死因が確定しているわけではないが、可能性が高いとされるものの1つが脳血管障害である。謙信は大酒飲みだったと伝わり、糖尿病が原因の高血圧だったのではないか、といわれる。武田氏の戦略や戦術を記した軍学書『甲陽軍鑑』には〈寅の三月九日に謙信閑所にて煩出し、五日煩い〉と記されている。つまり「閑所」で倒れたのであれば、脳血管障害の可能性が高いのではないか、というのだ。
松永久秀は前年10月、信長の嫡男の信忠を総大将とする10万の軍勢に、居城の信貴山城(奈良県平群町)を包囲され、自害していた。だから、久秀は結果として、謙信を中軸とする信長包囲網の恩恵を受けることはなかった。
だが、信長にとっては、久秀を滅ぼしたところで、次に謙信という、くらべものにならないほどの強敵を待ち受けるわけだから、大いなる危機が訪れるところだった。それが、いざ遠征に出ようという直前での、だれも予期しない謙信の急死によって、またもや救われたのである。
急死したから発生したお家騒動
変な話だが、謙信が生涯にわたって妻帯しなかったことも、信長には有利に働いた。もっとも、妻がいた可能性も一部には指摘されているが、確定できる史料がない。ともかく、実子はいなかった。一時期、養子だった人物に畠山義春と山浦国清がおり、謙信が死去した時点で養子だった人物に、上杉景勝と上杉景虎がいた。
景勝は謙信の姉の次男だから甥にあたる。一方、景虎は小田原の北条氏康の七男だった。血縁では景勝だが、謙信は景虎の力量を高く買っていた。だが、どちらを後継にするか決める前に急死してしまったため、後継をめぐって「御館の乱」と呼ばれる、一種の御家騒動が勃発するのである。
騒動はなかなか沈静化せず、ようやく天正7年(1579)2月に景勝の命による総攻撃を受けた景虎が自害し、乱は景勝の勝利に終わった。だが、内輪揉めをしているあいだに、上杉家の軍事力は衰退の一途をたどり、本能寺の変で信長が斃れなければ、上杉家は信長方の軍勢に攻め滅ぼされているところだった。
不思議なもので、歴史とはこうして、たった一人の「生き死に」に大きく左右される。上杉謙信が急死しなければ、「信長の野望」はもっと早くに途絶えていたかもしれない。信長が謙信に倒されていれば、もちろん羽柴(豊臣)政権もなかった。
しかし、みずからの急死によって織田政権、および羽柴政権への道筋を引いた謙信ではあったが、結局、江戸時代にも大藩として存続したのは上杉家だった。だから、なにが幸いするかわからないのが歴史だ、という話でもある。
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