急死しなければ歴史は変わっていた戦国武将は、武田信玄だけじゃない もう1人の名前は

国内 社会

  • ブックマーク

急死して歴史が変わった2人の武将

 急死したために、歴史が大きく変わった可能性がある戦国武将といえば、なんといっても甲斐(山梨県)の武田信玄が知られる。

 織田信長と対立するに至った将軍の足利義昭は、諸勢力に呼びかけて信長包囲網を築こうとした。その対象は浅井長政と朝倉義景、三好三人衆、本願寺顕如ら多岐にわたり、なかでも期待されたのが武田信玄だった。信玄は信玄で、徳川家康および背後にいる信長に業を煮やしていたので、満を持して西上をはじめたのだが、元亀4年(1573)4月、その途上で病死してしまう。

 もし信玄が死なずに西上していたら、信長は無事でいられたかわからない、とよく語られる。歴史に「もしも」は禁句だといわれるが、信玄が急死しなければ包囲網は勢いづき、信長にとって厳しい状況が生じたであろうことは、容易に想像がつく。

 したがって信長には、信玄の急死は大きな幸運だったが、急死したことで歴史が大きく変わったと思われる戦国武将が、じつはもう一人いる。信玄にとって宿命のライバルだった越後(新潟県)の上杉謙信である。NHKの人気番組「歴史探偵」でも、謙信の死について取り上げるというが(5月20日放送、25日再放送)、実際、謙信がもう少し長く生きていたら、今度こそ信長は追い込まれていたかもしれない。

 一例を挙げよう。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、第20回「本物の平蜘蛛」(5月24日放送)で、戦国きっての梟雄のイメージがある松永久秀(竹中直人)が、信長(小栗旬)に反旗をひるがえす。天正5年(1577)8月のことだった。この時期の信長は、天下一統に集中するため、家督を嫡男の信忠に譲渡。琵琶湖に突き出た安土山に、天下人の城にふさわしい安土城を築きはじめていた。いまやだれも逆らえそうもない信長に、久秀はなぜ逆らったのか、不思議に思われるかもしれない。

 だが、あえて信長に背く以上は、久秀にもそれなりに勝算があったに違いない。その頼みの綱のうちの、最大のものと考えられるのが上杉謙信だった。

謙信に賭けて信長に背いた松永久秀

 松永久秀は大坂本願寺に対峙して築かれた天王寺の砦に、信長の命で城番として入っていた。ところが信長に背いて、敵として戦っていた本願寺方につくことになるのだが、背景には、本願寺と上杉謙信の和睦があったと思われる。

 久秀が謀反を起こす前年の天正4年(1576)2月、足利義昭は毛利輝元の庇護のもと、備後(広島県東部)の鞆(福山市)に居を構え、室町幕府の再興を志して行動を起こした。室町幕府はすでに滅亡していたといっても、義昭は征夷大将軍のままだった。将軍として各地の大名に御内書を出し、ふたたび信長包囲網を企図したのである。

 包囲網の一角を担ったのは大坂本願寺で、だからこそ信長は、この年の4月から本願寺に対して攻勢に出ていた。ところが、それまで信長と同盟関係にあった上杉謙信が、5月に本願寺と和睦してしまった。むろん背後には、足利義昭から謙信への要請があったと考えられる。

 謙信にとって、本願寺と和睦できたことには大きな価値があった。謙信はそれまで長いあいだ、越中(富山県)や能登(石川県北部)、加賀(同南部)に進出するにあたって、一向一揆の激しい抵抗に悩まされてきた。ところが、本願寺と和睦できたことで、一向一揆勢はむしろ頼れる存在となり、天正5年(1577)には一向一揆勢力と手を組んで、越中や能登への侵攻を本格化した。そのうえ、これまで謙信の上洛を阻む存在だった本願寺が、いまやそれを促す存在になったのである。

 信長としては、そんな謙信に南下されてはたまらないので、柴田勝家を総大将とする軍勢を能登方面に送ったが、同年9月、手取川合戦で織田方の軍勢は上杉方に大敗を喫している。松永久秀の信長への謀反は、そんなタイミングで発生した。すでに謙信は、宿敵の武田家(勝頼)とも和睦し、毛利輝元とも連絡を取り合っており、義昭の要請もあって上洛を急いでいた。久秀が「いまならいける」と考えても不思議ではない状況だった。

次ページ:謙信の急死に救われた信長

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。