東大A判定の神童がなぜ“炎上上等”のグラドルに 中学で嫌われ、勝手にコラージュを作られ…「かわいかったからかな」反骨の原点

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並行して「平和活動」

――高校では社会活動もされていたんですよね。

麻倉:平和大使と国際協力団体「おこしWings」というのをやっていました。

平和大使は小学校ぐらいから、毎週日曜日の長崎駅まで通って署名運動をやっていました。寒くても手袋禁止、帽子を被るのも禁止と結構厳しくて。 最初は「何の意味があるんだろう」とかは考えずにやっていたんです。ただ高2のタイミングで政治家に会いに行くんですが、活動の裏で大人がいろいろよくないことをやっているのが分かってフェードアウトしました。

「おこしWings」はもともと同級生の子が立ち上げた団体だったんですが、彼女が「私、ちょっとインド行ってくるわ」と言っていなくなったので、副代表だった私が代表になりました。団体では音楽フェスを開いたり、地元の諫早を盛り上げるためにレシピを開発しようと、知り合いだった野菜ソムリエの方と一緒に「いさハヤシライス」を共同開発したりしました。

AKA48は最終審査だった

――学生時代は芸能界に興味はあったんですか?

麻倉:高校の頃にはアイドルになりたいと思っていました。オーディションも受けていて、AKB48のチーム8は最終審査に進みました。WACKのオーディションも2次審査までいったんですが、どちらも次の選考場所が東京だったんですよ。

私は「これは行くしかない」と思っていたんですけど、ちょうどコロナ禍で母が「東京には絶対行かせられない」と言ってきて。諫早は田舎なので、東京に行っていたという話は一瞬で広まって、当時バイキン扱いされていたんです。実際に別の人が出張で東京から帰ってきたら卵をぶつけられることもあったので。だから、そこで諦めました。

アナウンサーを目指して人生設計も…

――コロナじゃなきゃアイドルグループにいたかもしれないんですね。そこからどうやって芸能の道へ?

麻倉:SNSで写真をアップしていたら、DMで「ヴィレッジヴァンガードのアパレルモデルを探しているからモデルをやってみないか?」と連絡があって。卒業旅行も兼ねて東京に遊びに行って撮影したんです。その時、竹下通りで今の事務所にスカウトされました。

大学の合格も決まったんですけど、ママは芸能をやらせたいと思っていたようで、上京させてこの仕事につきました。ただパパは知らなくて、単身赴任から帰ってきたら私がいなくて「大学に行ってるんだよね」「いや、なんか東京いるみたい」みたいな感じだったみたいです。

――ただ、もともとはアナウンサーを目指してたんですよね。

麻倉:私の人生設計は大学で経営を学んで、ミスコンで優勝して、アナウンサーになることでした。上京して大学を辞めたらアナウンサーにはなれないけど「番組のMCだったり、アナウンサーっぽい仕事もあるし、なんとかなるっしょ」と考えていて。乗り掛かった船は全部乗るタイプなんです(笑)。

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