令和の学級崩壊は“静かに荒れる” 床に寝ころび、廊下をウロウロ…「多様性」の名で混乱する教育現場

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背景に「多様性のはき違え」

 この事例からわかるように、下手に注意をすれば、教員の側が保護者からの批判の矢を浴びることになる。なぜなのか。

 今の学校でキャッチフレーズのように飛び交うのが「多様性」という言葉だ。もう少し細かくいえば、「多文化共生」「みんなちがって、みんないい」「主体性の尊重」「子供の権利」といった言葉である。

 たしかに、子供に限らず、大人の社会においても多様性は非常に大きな課題となっている。

 いろいろな特性や文化を持つ人たちが、同じ空間で生きていくには、お互いの違いを理解し、相手を尊重し、力を合わせていかなければならない。学校教育の中で、それを大切にし、実践させるのは決して間違いではない。

 しかしながら、それと子供が勝手に気ままに行動するのを許すのとではまったく別の話だ。

 仮に子供たちの個人的な行動が授業の妨げになったり、他のクラスメイトたちに不快感を与えたりしていれば、「共生」でも「権利」でもない。尊重されるべき主体性でもない。それは、単なる迷惑行為に過ぎないのである。

 ところが、社会には多様性の意味をはき違えている人たちが一定数おり、その声が必要以上に大きくなっている。そのため、教員は本来するべき指導ができなくなってしまっているのだ。

 結果として“静かな荒れ”の拡大を食い止めることができず、学級崩壊が起こる。

責任を教員に押し付けるべきではない

 学校の“静かな荒れ”の中で生きる教員の苦悩と打開策とは何か。それについては、漫画『教育虐待』を参考にしてほしい。

 ここで押さえておきたいのは、学校でこうした状況が生まれた責任を教員に押し付けるのは酷だということだ。むろん、子供の責任でもない。

 現代社会で多様性が重要なキーワードであることは間違いない。しかし、それを教育現場に課しているのは、教育委員会、あるいはその上にいる官僚や取り巻きの有識者だ。

 本来、もし学校に多様性を求めるのならば、その定義を明確にし、共生の方法を提示するべきだ。一つの教室の中で、どうすれば発達特性の強い子や、海外ルーツの子、それに様々な事情を抱えた子たちが共存できるのかを示すということである。

 だが、彼らはそれをせずに、口先だけで耳当たりの良い「多様性」というフレーズを叫んでいるだけなのだ。だから、保護者も好きなように解釈して子供の言動を正当化する。

 これでは教員が学級経営に行き詰るのは仕方のないことだ。

 教員不足が深刻な問題となっている今、多様性のあり方についての議論はもっと深くなされるべきではないだろうか。

石井光太(いしい こうた)
1977年、東京生まれ。2021年『こどもホスピスの奇跡』で新潮ドキュメント賞を受賞。主な著書に『遺体 震災、津波の果てに』『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』『43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層』『ルポ 誰が国語力を殺すのか』『教育虐待 子供を壊す「教育熱心」な親たち』など。『ぼくたちはなぜ、学校へ行くのか。マララ・ユスフザイさんの国連演説から考える』など児童書も多い。『ルポ スマホ育児が子供を壊す』(新潮社)はロングセラーとなっている。

デイリー新潮編集部

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