「破滅型の人間だった」伝説のアマチュア棋士「小池重明」 40代で“余命1カ月”宣告を受けて書いた“遺書”の中身

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 1992年5月1日、アマチュア棋士の小池重明さんが44年の生涯を閉じた。アマ最強といわれた強さを誇り、「新宿の殺し屋」「プロ殺し」の異名を持つ伝説の棋士である。だが、その人生は“放蕩”そのもの。人生のバランスが将棋の強さだけに偏ったかのような生きざまであった。生前を知る知人や後に『真剣師 小池重明』を出版する団鬼六氏らのコメントで伝説の男を振り返る。

(以下「週刊新潮」1992年5月14日号「墓碑銘」を再編集しました。文中の肩書き、年齢等は掲載当時のものです)

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定職はなく、酒浸りの生活

「人に迷惑をかけてばかりいたが、将棋だけは滅法強かった」

 と、小池重明さんの友人たちは一様にいう。

 囲碁、将棋などの勝負師の世界には、時に破天荒な生き方をする人物が現れるが、1992年5月1日、茨城県石岡市の病院で肝不全のために亡くなったアマチュア棋士、小池重明さん(44)もその1人である。

 二度アマチュア名人になり、プロの高段者との対戦にも勝って「プロ殺し」と呼ばれた。ところが、盤上では強豪でも、実人生においては落伍者――定職はなく、酒浸りの生活。

「飲む、打つ、買うの全部に目がなく、破滅型の人間だった」(友人)

賭け将棋で放浪生活

 愛知県出身。幼時に父親が家を出奔、母親は再婚し、小池さんは養父に育てられる。将棋も養父に教わったという。

「将棋が好きで学校へ行かなくなり、県立高校を中退してしまった。17、8歳でプロ四段くらいの力があった」(友人)

 19歳の時にアマチュア名人戦の愛知県代表になり、その後、将棋仲間を頼って東京や各地を転々、賭け将棋などをしながら放浪生活を始める。

 東京で小池さんの世話をした元アマ名人、関則可さんの話。

「初めて会った時は、図体の大きい、将棋好きのぼんぼんという感じでしたが、とにかく強かった。そのころプロになるという話が出ましたが、実現しなかった。というのは、上野の将棋センターで店番をやっていたころ、ある夜ふらついていて美人局に引っかかり、脅されて店の売上げをそっくり取られてしまった。ところが彼はそれを釈明できず、蒸発してしまったんです」

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