「殿下」と呼ばれていたのに…86年に台湾で客死した「異端の元皇族」 京大卒「賀陽家の長男」の人生を変えた「臣籍降下」の衝撃

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「殿下、殿下」と呼ばれていたのが

「兄は太りすぎだったんです。小柄なのにヨコばかり大きくなっちゃって、最近は体調もあまりよくなかったのです」

 と、この異国の死を聞いて残念がるのは、弟の宗憲氏(50)である。

「酒もやめ、脂も控え、何度か病院にも通っていましたが、心臓の調子があまりよくなかった。大体、父も心不全で亡くなってますんで……」

 邦寿氏は大正11(1922)年に賀陽家の長男として生まれた。皇室との関係は故人の名刺にあったとおりである。昭和16(1941)年に陸軍士官学校を出て、陸軍大尉で終戦を迎えると、昭和21(1946)年に京都大学経済学部に入学した。が、翌年、賀陽家は他の十宮家とともに臣籍降下。

「私はまだ10歳ぐらいでしたから、あまりピンときませんでしたが、『臣籍降下』と聞いて、『ああ、明日からは自分で働いて食べていかなきゃいけないんだな』程度の思いはありました。それまで車で学校へ通っていたのが、急に電車で行くことになるわけですし、学校でも『殿下、殿下』と呼ばれていたのが、その日から『賀陽くん』になってしまうんですからね」

 と、この運命の急転の衝撃を宗憲氏は語ってくれる。

きょうだい6人はいずれも堅実

「私なんか幼かったからいいですけど、兄などは、すでに25年ぐらい皇族生活を送ってきてしまったわけでしょう。とても急にチェンジすることなど、できなかったろうと思いますね。しかも、長男でしたから、それなりにチヤホヤされる世界にいたわけです。それが一般庶民の生活に変わるんでは、ギャップを埋めることも難しかったろうと思いますね」(宗憲氏)

 で、やはりそのせいだったのか、京大を出た邦寿氏は東京銀行や国土計画に短期間勤めたものの、以後はこれといった定職を持たなかった。

 賀陽家には7人の子供があった。父の恒憲(つねのり)氏が昭和53(1978)年に亡くなって今、母・敏子さん(82)は学校法人の顧問、邦寿氏以外の子供6人は財団法人の常務理事、外交官、銀行員、百貨店社員などいずれも堅実な職業に就いているのに、長男だけはいささか面妖な世界に漂っていたのだ。

「兄の仕事は、賀陽政治経済研究所所長と、全国賀陽会が主な仕事でした。賀陽会は台湾との民間外交を進めるのが活動の柱のひとつです」

 と、宗憲氏は説明してくれる。その賀陽会の会員たちは、「講演会の開催や皇居参観などをする親睦団体で、ロータリークラブやライオンズクラブみたいなもの」と言うし、「『賀陽教』という一つの宗教。賀陽宮家という皇族を信奉する信者たちの集まり」とも言う。

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