「頭を叩かれても足を引っぱられても、それでも出てくるのが才能」反骨の美術家・篠田桃紅との思い出
墨などの日本画の画材を使った革新的な作品が、日本よりも早くアメリカで認められた抽象美術家の篠田桃紅(1913―2021)。晩年は『一〇三歳になってわかったこと』などのベストセラーでも話題になった。その桃紅の甥にあたる建築家の若山滋・名古屋工業大学名誉教授が、先ごろ上梓した『漢字文化圏の興亡 中国の限界、日本の前途』の中で、今なお根強い人気を誇る桃紅との貴重な思い出を綴っている。若山氏の人生に大きな影響を与えた桃紅と映画監督の篠田正浩、二人の文化創作者との交流を同書から抜粋して紹介しよう。
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篠田桃紅と篠田正浩
抽象美術家の篠田桃紅(とうこう)は僕の生母の妹、すなわち僕の叔母であり、映画監督の篠田正浩は僕の母の従弟、すなわち桃紅の従弟でもある(二人とも僕よりかなり年上だが親戚でもあり有名人でもあるので敬称を略す)。理数系一本だった僕が建築家になろうとしたのは、母方の親戚にこの二人がいたからでもある。文化創作者としての血が入っていると感じたのだ。また桃紅は書家からスタートしたのであり、先祖には明治天皇の御璽を彫った篆刻家・篠田芥津(かいしん)もいるので、漢字文化には縁の深い家系である。
親戚を自慢するようでおこがましいが、桃紅も正浩も、頭がよく博学で(知的な記憶力がきわめて高い)、話しているとおもしろい。僕は学生時代からつい最近まで、この二人から大きな影響を受けている。
三人で話していると……
二人に共通する点は、既成の権威に反発するところで、僕はその血を受け継いでいるのでどうにもならない。しかしこの二人が対照的に異なる点がある。桃紅は日本よりもアメリカで認められたこともあって、アメリカの知識人と親しいが、正浩は日中文化交流協会の代表理事を務めていたこともあって、どちらかといえば中国に造詣が深い。三人で話していると、僕はアメリカと中国に挟まれているような気になるのだ。
死の数日前の電話
「頭を叩かれても足を引っぱられても、それでも出てくるのが才能というものだ」桃紅はいう。しかし「才能に頼らず世間を大切にしなさい」と親のようなこともいう。日本の書道界に反旗をひるがえして芸術家になった彼女が抱える矛盾だろう。まさに漢字の呪能に反発し、和能によって新しい抽象美を創出した。「何でもいいから書き残しておきなさい」というのは僕に対する遺言のようなものだ。小津安二郎の助監督から松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手としてデビューした正浩は「創作の刺激を得たのは近松(門左衛門)、寺山(修司)、武満(徹)だ」とよく語っていた。「われわれの精神は滋くんが受け継いでくれるだろう」といっていたが、死の数日前に最期の電話をくれた。
岩下志麻のオーラ
もちろん正浩夫人の岩下志麻さんともお会いする。ある親戚の葬式で、僕は正浩の隣に座っていたが、少し遅れて、黒い和服を着た志麻さんが一人で入ってきた。そしてそのままスタスタと祭壇に向かったとき、僕は思わず身を伏せた。ふところからピストルを出して「覚悟しいや!」と叫びながらブッ放すような気がしたのである。映画『極道の妻たち』シリーズにそういうシーンがあるからだ。女優のオーラは恐ろしい。
親戚のことはさておき、僕が文章において影響を受けたのは、夏目漱石、小林秀雄、司馬遼太郎の三人だ。分野も文体も思想も異なるが、人間については漱石、芸術については小林、歴史(政治)については司馬。
桃紅のお伴で行ったアメリカ
僕が最初にアメリカ合衆国を訪れたのは、30歳前後、桃紅とともにであった。彼女の、ニューヨークとボストンにおける個展と、吉田五十八(いそや。和風モダンの名人というべき建築家)の設計になるワシントンの日本大使公邸に入れる絵の現場を下見するのが目的で、 カバンもち兼通訳として同行した。このときボストン近くにあるヴァルター・グロピウスの家(当時は限定的に公開されていた)を見る機会をえた。
旧知の桃紅が甥の建築家(まだ卵であったが)をともなってくるというので、わざわざイセ・グロピウス夫人(未亡人、ちなみにグロピウスの前の夫人は華麗な男性遍歴で知られるアルマ・マーラーである)が案内にきてくれた。すでに80を超していたが矍鑠(かくしゃく)として美しい人で、杖をつきながら家を案内し「この横長の窓は、WG(ヴァルター・グロピウスの略称)が私の視線で景色が一番美しく見えるように切り取ったのだ」と説明するのが誇らしげであった。
グロピウス夫人のモダニズム
ひとまわりしたあと、彼女が僕にたずねる。「近頃は日本でも建築に装飾が復活しつつあると聞きますが本当ですか」と。すでにポストモダンという言葉も出はじめたころで、僕が「そういう傾向もあるようです」と答えると、彼女は僕の顔をのぞき込むようにしていった。
「それを許してはいけません! 装飾の建築を絶対に許してはいけません。私たちは民主主義の建築を守らなくてはならないのです!」 力強く早口でいわれたので、英語を聞き取るのがやっとだったが、あの巨匠グロピウスが大きな眼をむいて話しかけてくるような気がして足がふるえた。彼らにとってモダニズムとは、単なる過去の様式からの離脱ではなく、民族主義的な様式を信奉するファシズムに対する命がけの戦いだったのである。グロピウスはヒトラーに追われるようにアメリカに渡ったのだ。
バウハウスの初代校長グロピウス
あとで桃紅に聞いた話では、彼女が最初にボストンで個展を開いたときに、グロピウスがやってきて絵を買い求め自宅に招待したという。そして晩餐の席で「われわれはこれから建築と美術の新しい関係を模索する必要がある」といったそうだ。
バウハウスの初代校長であったヴァルター・グロピウスこそ、ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエに先んじて、建築から彫刻や絵画を切り捨てた張本人なのだ。その彼の言葉だからこそ強い意味がある。近代建築において、様式と装飾は排除するべきだが、新しい時代にふさわしい美術は取り入れたいという。のちの夫人の意見とは逆のようだが矛盾はしない。
この巨匠の眼には、桃紅の、紙に墨象という、油絵のように強固ではない柔らかい抽象が、モダニズムの建築にふさわしいものと映ったのだろう。
桃紅と日本のモダニズム建築
実際その後、桃紅の絵は、日本のモダニズム建築家によく取り入れられた。前川國男、丹下健三、吉田五十八、剣持勇、大谷幸夫、林雅子など。桃紅の絵がモダニズムのシンプルな空間に華を添え、モダニズムの建築が桃紅の絵を空間的なものに育てたのだ。麻布のアメリカンクラブに「トーコーズルーム」というものがあるが、日本より先にアメリカで美術家として認められた篠田桃紅という女性が、戦後、アメリカと日本の文化関係に果たした役割は小さくない。
ちなみに、僕の建築作品はバウハウス風だとよくいわれる。










