「普通はあれができない」…杉村春子の「どこにでもいるおばさん」演技、小津監督も魅了された底知れぬ演技力【昭和女優ものがたり】
杉村春子は4番バッター
小津は、杉村をどのように見ていたのだろうか。岡田茉莉子は、小津との会話を著書に記している。「秋刀魚の味」(1962年)の完成祝いの場で、野球にたとえてこう聞く。「監督の作品に出た女優の中では、誰が4番バッターだと思います?」と。小津は迷うことなく「それは杉村春子だよ。4番がいなければ、野球にならない」と言ったという(岡田茉莉子『女優 岡田茉莉子』文春文庫)。
4番バッターと言えば、主役の原節子や笠智衆を考えてしまうが、脇役の杉村が4番だという。この小津の言葉を考えてみたい。
「東京物語」(1953年)を含めて、杉村が出演した作品は、「家族の崩壊」を描いているものが多い。登場する家族は、どこか清らかで浮世離れしたような存在だ。生活感がないと言ってもいい。小津独特のセリフ回しやカット割りが、そのように見せているのかもしれない。
そこに登場する杉村の役は、考えることは日々の雑事でいっぱいな市井の人だ。拾った財布に大喜びをする俗人でもある。小津はこうした人物を投入することによって、物語の骨格を太くし、リアリティを持たせたのだと思う。そこに観客は深い共感を抱くのだ。
もし小津作品に杉村がいなかったら、と考える。それはどこかさらっとした、現実味のない人々の物語になっていたのではなかろうか。高峰や森のように、小津もまた杉村の底知れぬ演技力を見抜いていたのだ。
「ボクモツイテイル」
1963年1月、文学座の芥川比呂志、仲谷昇、岸田今日子ら29名が退団し、劇団「雲」を設立した。杉村はこの動きを全く知らなかったという。晩年になってもこの苦い思いを忘れることはなく、許すこともできなかったという(中丸美繪『杉村春子 女優として、女として』文春文庫)。
この分裂事件で窮地に立たされた杉村のもとに、電報が届く。「オレガツイテル サトミトン ボクモツイテル オヅヤスジロウ」小津は盟友・里見惇と共に、激励の文を送ったのだ。杉村は「こうして書いていても、胸がいっぱいになって泣いてしまいそうです」と記している(『小津安二郎 人と仕事』)。
しかし小津はこの年、12月12日の誕生日に60歳で病死する。杉村は通夜に原節子とともに小津家を訪れた。泣き崩れる原を抱き抱えるようにしていたという(都筑政昭『「小津安二郎日記」を読む』ちくま文庫)。
最後の映画出演
杉村の舞台を観ることは叶わないが、映画の中では観ることができる。そこには、“至芸”というものが存在していた。
杉村が86歳の時舞台を観た新藤兼人監督は、「いま杉村春子を撮らなければと思った」という(新藤兼人『女の一生:杉村春子の生涯』岩波書店)。杉村のために新藤が用意した脚本は、杉村自身を描くものだった。「午後の遺言状」(1995年)である。蓼科高原を訪れた新劇女優・森本蓉子(杉村春子)の一夏の物語だ。
分身のような役を演じた杉村は、とても90歳近くとは思えない姿を見せる。小津作品とともにぜひ観てもらいたい。
晩年の杉村は、あれほど執念を燃やしていた舞台を降板した。膵臓がんだった。それでも、病室で台本を読んでいたという。1997年4月4日、91歳で逝去。通夜は文学座のアトリエで行われた。このような女優はもう二度と出てこないだろう。
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