「自衛隊」と呼ばれた守備職人も…プロ野球“名脇役”列伝

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 世界情勢が緊迫し、これまで専守防衛の立場を守ってきた自衛隊が大きな注目を集めるなか、プロ野球界にもかつて“自衛隊”と呼ばれた守備職人が存在した。打力は今ひとつながら、球界きっての守備のスペシャリストとしてチームに貢献した名脇役たちを紹介する。【久保田龍雄/ライター】

貴重なバイプレーヤーとして

 毎年打率2割前後と打撃面では目立った成績を挙げられなかったものの、守備が一流だったことから、“自衛隊”の異名をとったのが、大洋の遊撃手・米田慶三郎である。

 1968年、「年齢的にも最後のチャンス」の25歳でプロ入りすると、守備範囲の広さと強肩でアピールし、5年目にショートのレギュラーポジションを勝ち取った。二遊間の打球を、まるで氷の上を滑るような華麗なフットワークで処理する姿は、青田昇監督も「今遊撃で守備だけで銭の取れるのは米田一人ぐらいじゃないのかな」と惚れ込むほどだった。

 選手として最も脂が乗り切った72、73年は、2年続けてキャリアハイの113試合に出場。二塁・シピン、三塁・ボイヤーと堅守の助っ人コンビが脇を固め、一塁・松原誠も“大股開き”の秘技で送球をいち早くキャッチしたことから、“鉄壁の内野陣”と呼ばれた。

 だが、74年に打力も兼ね備えた山下大輔が入団すると、次第に出場機会が減っていった。

 78年に322守備機会連続無失策の日本記録(当時)を樹立した山下は、入団時に米田を手本に精進を重ね、球界屈指のショートストップになったことから、「僕の場合、米田さんの存在が大きかった」と回想している。

 米田は山下にポジションを譲ったあとも、貴重なバイプレーヤーとして79年までプレーした。

野球の神様からのご褒美

 1980年代から90年代にかけて日本ハムの内野陣を支えた白井一幸も、打撃は打率2割前後のシーズンが多かったが、リーグでもトップクラスの守備率を誇り、専守防衛の自衛隊にたとえられたこともある。

 94年には二塁手として545回連続守備機会無失策のパ・リーグ記録(当時)を達成し、.997という驚異的な守備率をマーク。捕球と動作の連動を心掛け、併殺を完成させることによって、試合の流れを変える内野のキーマンだった。

 その一方で、課題の打撃でも、両膝、右肩と計3度の手術を乗り越え、91年にリーグ3位の打率.311と最高出塁率を記録している。

 だが、意外にも、ゴールデングラブ賞を受賞したのは87年の1度だけ。同時期に辻発彦(西武)と大石大二郎(近鉄)がいたからだった。

 89年には守備率.994を記録しながら、.985の辻がベストナイン、ゴールデングラブ賞を両獲りという結果になった。

 守備以外の打率やチームの成績などの総合評価によって割を食らった感もあるが、白井自身は「打てばそれだけ目立つ。勝てばまた目立つ。そこに目がいくのは当然だ。守備というのは、あらゆる状況でその価値は違うし、複雑。そこに面白味がある」(週刊ベースボール1990年2月26日号)と語っていた。

 現役最終年の96年はオリックスでプレーし、プロ初のリーグ優勝と日本一を経験。脇役としての長年の貢献に対する野球の神様からのご褒美だったかもしれない。

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