“ムエンゴ”という言葉では片づけられない…あまりにも不運だった名投手列伝
3月27日に開幕するプロ野球公式戦。近年は3割打者が減少する一方、防御率1点台の投手が増えるなど、投高打低の傾向が続いている。そうした背景もあって、好投しながら報われない投手も少なくない。そして、“ムエンゴ”という言葉が定着する以前にも、打線の援護を得られなかった悲運の投手たちは存在した。【久保田龍雄/ライター】
パーフェクト継続中の投手が延長イニングを投げる
9回までパーフェクトに抑えながら、延長10回に初安打を許し、通算3度目の“ノーノー未遂”に泣いたのが、西武・西口文也(現・西武監督)である。
2005年8月27日の楽天戦、西口は変化球を低めに集める丁寧な投球で、初回から1人の走者も許さない。過去2度、9回2死からノーヒットノーランを逃していたことを教訓に、“鬼門”の9回2死も気を引き締めて27人目の打者・藤井彰人を遊ゴロに打ち取る。
通常ならこれで完全試合達成だが、西武打線も楽天の先発・一場靖弘を攻略できない。9回裏も2死一、二塁のサヨナラ機を逃し、試合は0対0のまま延長戦に突入した。パーフェクト継続中の投手が延長イニングを投げるという、NPB史上初の珍事だった。
そして10回表、西口は先頭の沖原佳典に124球目の外角スライダーを右前に弾き返され、史上16人目の快挙は幻と消えた。それでも直後の2死一、三塁のピンチはしのぎ切り、その裏、味方がサヨナラ勝ち。西口には1安打完封勝利が記録された。
試合後の西口は「僕には(記録は)縁がないんでしょう」と苦笑したが、実は、打たれた沖原とは11年前にも因縁があった。立正大4年秋の東都リーグ1、2部入替戦。1勝1敗で迎えた亜大との3回戦で、西口は入来祐作(巨人など)との投げ合いを1対0で制し、1部昇格を果たした。その9回2死、最後の打者が沖原だったのである。
「勝てば天国、負ければ地獄」と言われる東都の入替戦で涙をのんだ沖原が、11年後に完全試合を阻止する打者になる。西口が自著『自然体』(ベースボール・マガジン社)の中で「ここで同学年の沖原君に打たれて完全試合の夢が破れたのも、何かの運命だったかもしれない」と振り返っているように、数奇なめぐり合わせとしか言いようがない。
報われなかった夜があったからこそ
打者27人の完全試合を超える34人連続アウトを記録しながら、負け投手になったのが、阪神時代の江夏豊である。
1970年9月26日の中日戦。江夏は2回に高木守道へ二塁内野安打を許しただけで、9回まで二塁を踏ませず、被安打1の無失点に抑えた。だが、阪神打線も中日の先発・田辺修を打ち崩せない。9回1死一、二塁のサヨナラ機も生かせず、試合は0対0のまま延長戦へもつれ込んだ。
江夏は10回以降も走者を許さず、10回裏には自ら左前打を放って1死一、二塁の好機を演出したが、やはり得点にはつながらない。12回1死一、二塁のチャンスも逃し、投げても投げても報われない展開が続いた。
肉体も精神も疲弊しきった江夏は、13回1死、菱川章を捕邪飛に打ち取った直後、強いめまいと吐き気に襲われ、マウンドにしゃがみ込んでしまう。それでも交代を打診する村山実監督に「大丈夫。行けます」と告げ、4番・ミラーを三振に斬った。これで2回1死一塁から34人連続アウトである。
その裏、阪神は2死二塁のチャンスをまたしても生かせず、14回も江夏が続投した。だが、すでに体力も気力も限界だった。先頭の木俣達彦にカウント3-1から166球目の内角直球を左翼席に運ばれ、ついに力尽きる。村山監督に抱えられるようにベンチへ戻った江夏は、「心室性期外収縮の頻発による頻脈状態」と診断され、そのまま入院した。
それでも虎打線は最後まで目を覚まさない。14回無死二塁の同点機も後続3人が倒れ、江夏は被安打2で負け投手となった。
もっとも、“不屈の男”はこのまま終わらない。3年後の1973年8月30日、因縁の中日戦で、0対0の延長11回に自ら右越えのサヨナラ本塁打を放ち、史上初の延長戦ノーヒットノーランを達成している。報われなかった夜があったからこそ、なおさら際立つ快挙だった。
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