「ストレスで吸う本数が増えた。やめられへん」 高市首相の健康不安 「喫煙でリウマチの薬の効果が低下」「睡眠不足に加えて食が細い」

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「アメリカが肩代わりしてくれるか」と迫った田中角栄元首相

 トイレットぺーパーなどの買い占めにより狂乱物価の一因となり、高度経済成長を止めた1973年の第1次オイルショック。その引き金は第4次中東戦争だった。米国などが支援するイスラエルと、シリアなどアラブ諸国との争いで、日本は窮地に追い込まれていた。

 当時から中東産の原油に頼ってきた日本は、米国から無理難題を突き付けられることになった。そのメッセンジャー役として、ニクソン政権はヘンリー・キッシンジャー国務長官を東京に送り込んできたのだ。

「来日したキッシンジャーが何を言ってくるのか。それが日本政府としてもハッキリ分からず、官邸内は非常に緊迫した雰囲気だったことを覚えています」

 と振り返るのは、田中角栄元首相の秘書官で、後に旧通産省の事務次官などを歴任した小長啓一氏(95)。会談は通訳を介してサシで行われたという。

「キッシンジャーは“アメリカの立場を考えて中東からの石油輸入を絶ってほしい。中東諸国の味方をするのはやめるべき”と言ってきた。これに答えた田中さんは“石油の大半は中東から仕入れているんだ。買うのをやめろというなら、その分をアメリカが肩代わりしてくれるか”と迫った。さすがにキッシンジャーもOKとは言えず、沈黙が流れたそうです」(同)

 そこで畳みかけるかのごとく、ダミ声が特徴の“角栄節”が炸裂したという。

「田中さんは“日米関係は不変だけれど、こと油に関しては経済を維持するためにアメリカを頼るわけにもいかない。分かってくれ”と毅然と対応した。まだ戦後30年もたっていない頃ですが、当時の田中さんは国益を守るため、米国と対等の立場で交渉にあたっていたということです」(同)

アラブ寄りであることを宣言

 アラブの産油国はOAPEC(アラブ石油輸出国機構)を組織して、親イスラエルの「非友好国」には原油を売らない方針を打ち出していた。

「日本とアラブ諸国が敵対した歴史はありません。三木武夫副総理を筆頭に中東諸国を歴訪する一行に私も参加して、なんとか独自外交で石油を調達するためのルートを切り開こうとしたのです」(小長氏)

 その外交団に通訳として加わったのが、外務省の上級職・アラビストの第一号だった片倉邦雄氏(92)だ。

「田中政権も一枚岩ではなく、大平正芳外相はアラブ寄りの外交に強く反対していた。対して、中曽根康弘通産相は一刻も早く中東の石油を確保しなければいけないと主張し、これに田中さんが乗っかったわけです。キッシンジャー来日後の73年11月22日には、二階堂進官房長官が談話を出しています。イスラエルのアラブ領土占領に遺憾の意を示して、国交断絶まで示唆する踏み込んだ内容でした」

 米国と同盟を結ぶ日本が、初めてアラブ寄りであることを宣言した出来事だった。

「日本は米国と立場が違うと明確に宣言した意味は大きかった。私は産油国であるサウジアラビアのファイサル国王、それに軍事大国だったエジプトのサーダート大統領との会談に通訳として臨みましたが、三木副総理は“パレスチナ問題で日本はアラブ支持の立場を取っている”と伝えた。結果的にファイサル国王は“日本は友好国。必要量を供給します”と言ってくれた。これが転機となって最終的にはOAPECが認めてくれました。73年12月25日の出来事で、われわれはクリスマスプレゼントだと喜び、万歳しましたね」(同)

 日米同盟を維持しながら日本は石油の安定供給を実現した。こうした中東諸国との歴史的なつながりを大事にすべきだとして、前出の小長氏はこう話す。

「あれから半世紀以上がたちますが、いまだ日本は中東の石油に依存して再び米国と中東の間で板挟みになっています。あの当時、田中首相のリーダーシップの下で『友好国』と認めてもらったわけですから、日本独自の外交努力は諦めずに続けるべき。それなのに、今回のイラン攻撃後、日本政府は要人を誰も中東に派遣していませんね。先人が積み重ねてきた友好関係を維持できるよう、イランに対しても独自外交に徹するべきだと思います」

 後編では、高市首相の原油高対策に対する専門家の見解などについて報じる。

週刊新潮 2026年3月26日号掲載

特集「『イラン攻撃』『体調不良』『令和のオイルショック』 三重苦にあえぐ高市首相」より

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