「こんな人は他にいない」…研究の途から落語に飛び込んだ「桂米朝さん」、消滅待ったなしの「上方落語」をいかに救ったか
上方落語の四天王
2015年3月19日、上方落語「四天王」の1人と呼ばれた落語家・桂米朝さんが死去した。上方落語とは大阪や京都を中心に発展した落語である。お囃子(はめもの)や拍子木(小拍子)など特有の小道具、上方言葉を使ってリズムや軽妙さを際立たせるスタイルは、江戸落語とまた異なる魅力にあふれている。
その興りは江戸落語とおなじく江戸時代とされているが、時代を通じて順風満帆で芸が継承されたわけではない。戦後、消滅の危機に瀕した際、身を挺して落語界に飛び込んだのが米朝さんである。失われつつあった噺を懸命に収集し、生きた演目として後世につなげる役割を果たした。
そうした努力を知らない世代の関西人にとっても、米朝さんは「ええ声と語り口」の名芸人。NHK朝ドラやバラエティ番組、料理系ミニ番組など、落語家とは異なる顔も魅力的だった。米朝さんが使うまろやかな響きの上方言葉は、関西弁、特に大阪弁の“早口と大声でまくしたてる”というイメージを変えてくれることだろう。命日にあたり、米朝さんの生涯を振り返る。
(以下「週刊新潮」2015年4月2日号「墓碑銘」を再編集しました)
***
【写真】東京では“落語家事務所の社長”が江戸文字「勘亭流」の家元に! どんな文字?
研究者としても名人
桂米朝さん(本名・中川清)は、漫才におされて消え去ると見られていた上方落語の復興に挑んだ。米朝さんと同い年で、交友が深かった演出家の山田庄一さんは振り返る。
「落語家としても研究者としても名人でした。こんな人は他にいません。噺を覚えている人が亡くなれば上方落語は本当に失われてしまうと、口伝を受けたり文献にあたり必死で収集したのです。そのままでは意味がわからない昔の噺は枕をふって解説したり、現代調にアレンジしますが、本来の魅力を損なわず説明的にならないように考えました」
五代目柳家小さんに次いで、平成8(1996)年に人間国宝に認定。文化功労者にもなり、平成21(2009)年には落語家として初めて文化勲章を受章している。
正岡容さんを訪ねたのが転機
大正14(1925)年、日本租借地時代の大連生まれ。郷里は兵庫県の姫路で、祖父は神主。父親は郵便局に勤めていたが、昭和5(1930)年、神主を継ぐため一家で帰郷。昭和18(1943)年、大東文化学院(現・大東文化大学)へ進み上京した。
著作を読み尊敬していた、寄席研究家で作家の正岡容(いるる)さんの自宅を偶然に見つけ、訪ねたのが転機となる。正岡門下には俳優の小沢昭一や加藤武ら錚々たる面々がいる。そのひとりで脚本家の大西信行さんは言う。
「米朝さんはでたらめなことを絶対に言いません。物事を徹底して調べるのも、当時の正岡さんの研究方法を受け継いでいます。もの憶えも抜群に良かった」
敗戦後、故郷で働きながら研究家を志していたが、上方落語存続の危機に自ら演じることを決意。昭和22(1947)年に四代目桂米團治に入門した。
死後の世界をユーモラスに語る「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」や「算段の平兵衛」、「はてなの茶碗」など、埋もれている噺を復活させた。
[1/2ページ]


