【豊臣兄弟!】天下布武は“全国制覇”の意志ではない…見直しを迫られる「信長の野望」
信長上洛で実現した「天下布武」
では、「天下」に「布武」が付くとどうなるか。この時代、「武」をもって「天下」を統治する立場にあったのは室町幕府の将軍であった。したがって、「天下布武」とは、将軍の力と権威を五畿内とその周辺に行き渡らせることだった、と考えられる。
室町将軍の政治的影響力は、応仁・文明の乱を経て衰えたものの、京都周辺にはそれなりに維持されていたことがわかっている。とはいえ将軍は、相次ぐ政争の影響で京都を追われることもたびたびで、13代将軍の足利義輝に至っては、永禄8年(1565)に殺害されていた(永禄の変)。
信長は永禄11年(1568)9月、足利義昭を奉じて上京し、義昭を将軍の座に就けるとともに、近江(滋賀県)の六角氏や三好三人衆を破って畿内を平定した。つまり、この時点で信長は、すでに「天下布武」を実現したことになる。
確実にいえるのは、信長は「天下布武」の印章で、武力による全国統一の意志を示したわけではなかった、ということである。この時点で信長がめざしたのは、足利将軍による「天下」すなわち畿内の秩序の確立で、足利義昭も、従来のように信長の傀儡だったとは見られていない。2人は信長の軍事力と将軍の権威を利用し合う補完関係にあったと考えられている。
「信長の野望」の見直し
では、この時点で信長に、全国統一の意志はあったのだろうか。それはわからないが、この時点で信長が望んでいたものを、近年の考え方の代表例として、金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』から引用する。
「信長は戦国時代の室町将軍を中心とした枠組みのなかで、『天下』という領域の平和と秩序を維持すべき将軍を支える存在として登場したのである。このような戦国時代において室町将軍が維持すべき『天下』の平和状態を、のちに義昭や信長自身も発給文書のなかで用いる言葉である“天下静謐”と呼びたい。これこそ信長がもっとも重視した政治理念(大義名分)であった」
つまり信長は、自分が将軍と並び立って「天下」を平和に治めることができていれば、それなりに満足だったということだろう。引用を続ける。
「信長は天下静謐(を維持すること)をみずからの使命とした。当初はその責任をもつ将軍義昭のために協力し、義昭がこれを怠ると強く叱責した。また対立の結果として義昭を『天下』から追放したあとは、自分自身がそれを担う存在であることを自覚し、その大義名分を掲げ、天下静謐を乱すと判断した敵対勢力の掃討に力を注いだ」
将軍が追放され、信長という一戦国大名が、それに取って代わるようにふるまえば、周囲の戦国大名たちにとっては脅威に感じられる。だから信長に敵対し、掃討の対象になる。本能寺の変まで、その繰り返しだったというわけだ。
このあたりの見解は、研究者によって微妙に異なるが、いずれにせよ「天下布武」は「信長の野望」の表明ではなかった。そして、「信長の野望」が、考えられてきたようなむき出しの欲望ではなかったことは、いまでは共通の見解になっている。
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