【豊臣兄弟!】天下布武は“全国制覇”の意志ではない…見直しを迫られる「信長の野望」

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「必ず天下布武を成し遂げる」

 織田信長(小栗旬)は7年を費やした美濃(岐阜県南部)攻めをついに成し遂げ、斎藤龍興(濱田龍臣)の本拠地だった稲葉山城(岐阜市)を手中にした。永禄10年(1567)8月のことだった。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第9回「竹中半兵衛という男」(3月8日放送)。

 続いて、第10回「信長上洛」(3月15日)では、信長はまず居城を小牧山城(愛知県小牧市)から稲葉山城に移す。その際、地名を井ノ口から岐阜にあらため、城の名も岐阜城とした。その岐阜城にある日、明智光秀(要潤)が訪ねてきた。このころの光秀は足利義昭の家臣で、空席になっている室町幕府の将軍の座に就けるために、義昭を擁して上洛してもらえないか。そう信長に依頼したのだった。

 信長はこの申し出を受け入れ、必ず義昭を京都に連れて行って「必ず天下布武を成し遂げる」と、光秀の前で宣言するのだった――。

「天下布武」という言葉だが、信長は永禄10年(1567)の11月から、すなわち岐阜城を本拠にして2カ月ほどしてから使いはじめた。この文字を刻んだ印章をもちいるようになったのだ。その意味だが、以前は、信長が武力によって全国を統一する意思を示したものと考えられていた。

 たとえば、2006年に文部科学省の検定を通過した高校教科書、山川出版社刊『改訂版 詳説日本史』には、次のように書かれている。

「戦国大名のなかで全国統一の野望を最初にいだき、実行に移したのは尾張の織田信長であった。信長は1560(永禄3)年に今川義元を尾張の桶狭間の戦いで破り、1567(永禄10)年に美濃の斎藤氏を滅ぼして岐阜城に移ると、『天下布武』の印判を使用して天下を武力によって統一する意志を明らかにした。翌年信長は、畿内を追われていた足利義昭を立てて入京し、義昭を将軍職につけて、全国統一の第一歩を踏み出した」

「天下」は京都中心の狭いエリアのこと

 だが、少し考えると気づかされるが、信長が「天下布武」という印章によって、武力による全国統一の意志を示したのだとしたら、あまりに軽率な行動とはいえないだろうか。「天下布武」、すなわち「これから武力でみなさんを征服します」という意味の印章が押された書状を受けとれば、その大名はケンカを売られたり、宣戦布告を受けたりした気になっただろう。信長にすれば、みずから率先して敵をつくることになってしまう。

 じつは信長の時代には、「天下」という言葉は日本全国を意味しなかった。たとえばイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、「天下」とは「五畿内の五カ国」のことだと報告している。

 五畿内とはすなわち、山城(京都府南部)、大和(奈良県)、河内(大阪府北東部から南東部)、和泉(大阪府南西部)、摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)のこと。神田千里氏は『織田政権の支配と論理』などで、「天下」はこの五畿内を中心とした地域からなる秩序のことを指していた、と明らかにした。

 では、なぜこのエリアが「天下」と呼ばれたのか。それは京都が、日本の秩序を維持する存在としての天皇がいる首都だからで、同時に、武家の棟梁たる将軍が管轄する地域だったからだという。いずれにしても、ここにいう「天下」とは全国ではなく、京都を中心とする狭い地域を指す言葉だったのである。

 ただし、「天下」と地方が切り離されていたという意味ではない。「天下」を統治する者は「天下」を核に地方を束ねると認識されていた。

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