就職先が見つからず直接「セガ」へ、まさかの即採用… 『メガドライブ』『セガサターン』生みの親がゲームに捧げた半生【追悼】
“高性能”指向
セガは初期、家庭用ゲーム機開発でNEC、ヤマハ、日立などと組んでいた。高性能なゲーム機を指向していたことがうかがえる一面である。
「任天堂はファミコンの後継機を出してハード面の進化を示しても、ゲームの決め手はソフトであると、ゲームそのものの面白さを一番重視していました。ゲームは生活必需品ではないので、遊ぶ人が楽しさを感じなくなれば買われる理由はなくなります。ゲームを扱う産業の怖い面です」(先の記者)
1988年に発売した『メガドライブ』はセガファンが激増する契機となった機種だ。家庭用ゲーム機に搭載するには高価なCPU(中央演算処理装置)を、大量購入するから大幅にまけて欲しい、と佐藤さんがアメリカまで買いつけに出かけ直談判して話をまとめたという。『ゲームギア』を出した1990年にはセガが東証一部に上場と社業全体も順調だった。
「プレステのほうが面白いよな」
『セガサターン』が話題を呼んだ1994年、新たなライバルが現れた。ソニーの『プレイステーション』だ。『セガサターン』のCMには、『せがた三四郎』として藤岡弘、さんを起用、任天堂やソニーに勝つという闘志を見せた。だが、凋落が始まってしまう。
「1998年、満を持して世に問うた『ドリームキャスト』は、一般家庭にネットワーク環境が十分普及していなかった時代に、オンラインゲームの普及を掲げた革新的な作りでした。先を読んでいたにもかかわらず、売れ行きは伸び悩んでしまいます」(先の記者)
『ドリームキャスト』は、セガに実在した湯川英一専務が、「セガなんてダッセーよな」「プレステのほうが面白いよな」という子どもたちの会話を耳にして落ち込むような自虐的CMのほうが注目されてしまう。家庭用ゲーム機が赤字を生む主因となっていった。
推されて社長になったのに
普段、表に出ることのない佐藤さんの名前が広く一般に報じられたのは、2001年、『ドリームキャスト』の生産中止を副社長として発表した時だった。
「家庭用ゲーム機事業は、本体製作から撤退しゲームソフト作りに専念する決定でした。ハードの開発に最初から関わってきた佐藤さんが、撤退も自ら中心となって進めるという気の毒な結果になりました」(先の記者)
同年、ほどなくして闘病中だった会長兼社長の大川功さんが亡くなる。当時、セガの経営改革のため、大川社長は社外から人材を招聘し登用していた。次期社長にセガ生え抜きで副社長の佐藤さんが昇格したのは、強力な指導力を発揮した大川社長から集団指導体制へ移行するなかで、人柄が良くて生え抜きだからと推された形だった。しかし、社の再建が急務となるなか、この社長で適任なのかと矢面に立たされてしまう。取材に対し「財務のことはわかりません」などと答えてしまう正直すぎる人だったのだ。入社以来30年、技術の現場一筋では無理もない。
社長在任中、経営再建のためサミーやナムコとの事業統合や合併を目指すが、この時期にはどちらとも話をまとめられず、混乱の責任を取り2003年、代表権のない会長に退く。
「佐藤さんは出世や権力欲より、手がけたゲーム機をどう楽しんでもらえるかを最大の関心事として働いてきました。社長になると社内外の思惑に振り回され、当事者意識に欠けると評されてしまいました」(先の記者)
セガ家庭用ゲーム機の父
2008年からはゲーム産業とは関係のない、照明機器の開発製造を手がける会社の社長を務めていた。セガ時代について取材を受けると、ゲーム機については楽しそうに回想していた。「初期はハードが良くてもソフトがそろわなかった」、「性能が良く先見の明もあるのに、売るための仕掛けが上手ではなかった」、「90年代の中頃から家庭用ゲーム機の市場が巨大ビジネスになり、セガの手に負えなくなってきた」などと振り返るあたり、どこまでも技術畑の人である。
2月13日、75歳で逝去。
古巣のセガが訃報を伝え、貢献に感謝の意を表している。ゲームファンの間で佐藤さんは「セガ家庭用ゲーム機の父」と今も呼ばれる存在だ。何よりの称号だろう。
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