キンタロー。が次に“標的”にするのは聖域・真美子夫人? 「りくりゅう」モノマネでバッシング後も攻め続けるのか
「愛されるギャップ」を独自解釈するキンタロー。の妙技と暴力性
そしてこの「隙」こそが、日本の芸能界で長く愛されてきた「ギャップ」という魅力の正体でもある。前田あっちゃんにしろ真央ちゃんにしろ、「外見は愛らしいのに、時々どこか不思議ちゃん」という内面とのギャップが国民的人気を得てきた要素の一つであった。
今回キンタロー。さんが顔マネした三浦選手も、氷上ではしなやかでかれんな美女だが、パートナーの木原選手からは、「よく転ぶ」という「ドジっ子」な素顔が明かされている。実際にエキシビションでも衣装のファスナーを上げ忘れるといった天然な一面を見せ、「演技後に年上の木原を聖母のように抱きしめていた美人アスリートが、実はドジっ子」という絶妙なギャップにお茶の間は悶えたに違いない。
しかし、この「愛されるギャップ」を、キンタロー。さんは独自のレンズでゆがませる。世間が「ドジっ子でかわいい」と愛でる部分を、彼女はあえて「ドジっ子のドヤ顔」という「ズレ」として解釈し、拡大して見せる。この解釈の変換こそが、モノマネという芸の「妙」であり「毒」でもあり、同時に視聴者が悪意を嗅ぎ取ってしまう要因だろう。
ファンが抱く不満の本質は、自分たちが崇めてきたアスリートやタレントが、芸人の手によって一度「笑い」として消化されることで、「ちょっと変な人」というレッテルを貼られ、崇高な位置から引きずり降ろされてしまうことの暴力性にある。ひとたび「笑いものにしていい枠」に押し込まれてしまえば、二度と元の聖域には戻れないのではないか、という恐怖がバッシングの引き金となっているのだ。
「公認」の安全地帯か、禁断の毒か 真美子夫人という「聖域」への挑戦は?
最近のモノマネ界では、こうした「毒」をストレートには発しないスマートな立ち回りが主流になりつつある。SNSを通じて本人から「公認」を得ることで、悪意をカムフラージュする手法だ。キンタロー。さんもかつて、前田さんご本人と一緒に踊ることでネタを「昇華」させ、「仲の良さ」という免罪符を手に入れてみせた。このやり方は、今のコンプラ社会において芸人が生き残るための最も有効な防衛策といえる。
ではキンタロー。さんは今後どのような戦略を取るのか。世論の反発を恐れず、時の「聖域」に切り込み続けてきた彼女のすごみは、そうした安易な公認に頼らない、むき出しの批評性にこそある。浅田真央さんをモノマネした際は、身の危険を感じるほどバッシングされたというのに、「りくりゅう」にも早速切り込むキンタロー。さんのガッツは五輪選手並みである。
だからこそキンタロー。さんがこの先、「顔マネしやすいファニーな人だけを選んで、安全な場所から石を投げる」という守りの姿勢に入ってしまえば、その芸の先鋭性も独自性も失われてしまう。それはちょっとつまらないなと私は思ってしまうのだ。
過熱するバッシングに対して「みなさん温かい目で見てください」というキンタロー。さんの言葉には、見たいものと実像との間に横たわる「美女のギャップ」に目を光らせているしたたかさを感じる。「意地悪と言われようとバカと言われようとお笑い芸人としての美学を貫く」という気概を持ち続けているのなら、その試金石となるのは、いまや誰も手出しできない究極の聖域、大谷翔平夫人・真美子さんではないだろうか。非の打ち所がない、完璧な物語を体現するあの夫婦。愛されるギャップすらも計算され尽くしたように美しいあの聖域に対して、令和の顔マネ芸人・キンタロー。さんはどのように向き合うのか聞いてみたい気がする。
WBCもいよいよ開幕した。日本中が大谷選手の一挙手一投足に熱狂する今、キンタロー。さんが投じる次の一球は、観客をうならせる剛速球のストライクとなるか、それとも「危険球」として退場を宣告されるのか。何にせよ彼女の次の一手こそ、美女の顔マネ芸という名の「毒」が、令和に生き残れるかどうかの大勝負になるに違いない。





