「勝ち方にも品があった」…「南海ホークス」全盛期を築いた名監督「鶴岡一人さん」 棺を見送る御堂筋が感謝の声であふれた「親分」の生涯【没後26年】

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通算リーグ優勝回数1位の名監督

 昭和の頃、福岡ダイエーホークスは南海ホークスだった。本拠地は大阪ミナミの大阪球場・ナンバ球場こと大阪スタヂアム。敷地の狭さゆえにホームランが出やすく、「珍プレー好プレー」にもよく登場したこの球場で、南海ホークスは1950年から1988年まで戦った。

 鶴岡一人氏は1950年、1946年から務めていた選手兼任監督として大阪球場の土を踏んだ。球界で「親分」と呼ばれる指導者は何人か登場しているが、“初代”とされるのは鶴岡氏である。監督としてリーグ優勝に導いた回数は通算11回、川上哲治氏(巨人)と並んで1位。指導力はもちろん人徳にも恵まれ、南海ホークスの黄金時代を築いた。

 そんな鶴岡氏が心不全で世を去ったのは、2000年3月7日のこと。かつてミナミを熱く燃えさせた親分の生涯を振り返る。

(以下、「週刊新潮」2000年3月23日号「墓碑銘」を再編集しました。文中の肩書き等は掲載当時のものです)

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南海一筋…浪花節的に尽くした人物

 葬儀は、球界のみならず各界の著名人から一般ファンまで、2000人が集まった。「親分」と呼ばれ、敵チームからも慕われた、名将、鶴岡一人・南海元監督が2000(平成12)年3月7日、心不全で亡くなった。享年83。

「『バカタレ』が口癖、どこにいてもあの嗄れ声が聞こえるとすぐわかる。浪花節的に南海一筋に尽くされた。それが一層讃えられるのでしょう」(野球評論家、有本義明氏)

 1916(大正5)年、広島県呉市の生まれ。広島商業を経て法政大学に。好打堅守の三塁手、主将としても活躍した。1939(昭和14)年に弱体だった南海ホークス(当時は南海軍)に入団する。

「プロでも新人ながら、すぐに主将となった。親分肌で常に指揮官となる人でした」(野球評論家、近藤唯之氏)

 1年目から10本の本塁打を放ち、本塁打王に。しかし翌年応召。戦中も、鹿児島・知覧の高射砲隊で中隊長として指揮を執った。1944(昭和19)年、山本文子さんと結婚。入り婿となり、姓を山本と改めている。

 1946(昭和21)年、復員後に南海(当時は近畿グレードリング、翌年から南海ホークス)に戻ると、29歳にして選手兼監督に就任。以来、23年間の監督生活で史上最多の1773勝を達成。1リーグで2度、パ・リーグで9度の優勝回数も最多記録である。

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