「オフでもホテルの部屋を出るときはマスクをつけていた」 83歳になったミル・マスカラス、“千の顔を持つ男”の伝説
常にマスクを…
特筆すべきは、1977年8月25日、田園コロシアムでおこなわれたジャンボ鶴田との一騎打ちだ。フレッシュかつ、ダイナミックな展開に、“新時代の名勝負”とされ、この年の「年間最高試合賞」(東京スポーツ)も受賞。当時15歳の高田延彦が観戦、カメラに映り込んでいたり、これまた少年期(13歳)の川田利明はテレビ観戦し、「それまでのプロレスのドロドロとしたイメージが一新された」と振り返るほどのベストバウトだった。
また、2年後の1979年8月26日に行われた「夢のオールスター戦」では、ジャンボ鶴田、藤波辰巳と、“夢のアイドル・トリオ”を結成。マサ斎藤、タイガー戸口、高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)に勝利している。
以降、近年になってもレジェンドとして日本の興行に呼ばれ、衰えぬ人気を見せるマスカラス。そんな彼にとって、1970年代に続く80年代は、雌伏の時だったかも知れない。新日本から始まった“日本人レスラー同士の抗争”が全日本プロレスでも徐々に主流となり、試合にも、マスカラスに代表される華麗さではなく、何より先ず激しさが重用される時代となった。1981年に初代タイガーマスクがデビューし、よりハイスピードな動きでブームを起こしたことも、その威容に無関係だったとは言えないと思う。
83年11月に来日したマスカラスは、2年後の85年10月にも来日。当時のリングには長州力や谷津嘉章が跋扈していた。プロレス雑誌に、それらを表した1コマ漫画があった。暴れる長州や谷津の姿を見つめるマスカラスは、浦島太郎の恰好をさせられていた。
今世紀になってから、前出の竹内との知遇を得た筆者は、いくつもの貴重な話を聞いた。お気に入りだったのは、東京ドーム・ホテルの1階にあるカフェ。そこで、マスカラスの逸話も沢山聞いた。
「オフの時でもね、ホテルの部屋を出る時は、マスクを着けてるんですよね。それでエレベーターに乗って、先ず最上階のボタンを押す。そうして同乗者が全部いなくなると、マスクを脱いで、1階のボタンを押して、素顔で出て行く……。戻る時は逆で、素顔でエレベーターに乗って、最上階を押す。そして、全員がいなくなったらマスクを被って自室に帰るんです。というのはホテルの部屋番号を知っているマスコミやファンが、部屋の前で待っていたら素顔を見られてしまいますからね。部屋を出る時と入る時は、必ずマスカラスでなきゃいけないわけですよ」
中でも口ぶりが熱くなるのは自らが創刊した「ゴング」とマスカラスの関係に、話が及ぶ時だった。
「『ゴング』は最初、白黒だったんですけど、1969年2月号から最初の4ページだけカラーを導入したんです。そして、その年の8月号に初めてマスカラスのカラー写真を載せたら、それが売れに売れてね。お陰で我が社(日本スポーツ社)は初めて1泊の社員旅行が出来たんですよ!(笑)」
「マスカラスが初来日した1971年2月は忘れられません。というのはその月の1日に、我が社はそれまでの東京・神保町の10坪の仮事務所から、文京区白山の新社屋に引っ越せたんです! 自分たちの城を構えることが出来たのも、マスカラスのお陰なんですよね……」
80年代より、マスカラスの来日は徐々に減っていった。しかし、逆に「ゴング」は繁忙状態に。めまぐるしく移り変わるプロレス界を追うため、1984年には週刊化し、そこからも疾走し続け、19年後の2003年12月、遂に「週刊ゴング」として1000号を迎えた。
記念すべき1000号の表紙には、額に「1000」の文字が縫い込まれた特別なマスクを被った男が、中央にデカデカと映っていた。
それは勿論、マスカラスだった(※2)。
※1:「デイリー新潮」2023年6月11日配信
※2:「1000が縫い込まれたマスクを被って欲しい」と要望したのはゴングのアイデア。だが、ゴング側が「そのマスクを被ってるところを、こちらがメキシコまで撮影に行きますから」とすると、マスカラスは固辞し、「俺がそちらに行くよ。俺にも祝わせてくれないか」と自ら来日したという。
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