「オフでもホテルの部屋を出るときはマスクをつけていた」 83歳になったミル・マスカラス、“千の顔を持つ男”の伝説

スポーツ

  • ブックマーク

 都市伝説の類いは、プロレス界にも存在する。例えば、〈アンドレ・ザ・ジャイアントは、札幌ビール園で飲み干した大ジョッキの最多記録を持っている〉については、当欄の取材で、残念ながら架空話と判明した(※1)。では、以下の情報はどうだろうか?

〈覆面レスラー、ミル・マスカラスの入場曲「スカイ・ハイ」は、日本のオリコン・ランキングで2位になったことがある〉。

 たとえるならば、往年の人気番組TBS「ザ・ベストテン」で、1位の寺尾聡「ルビーの指輪」の次に、アントニオ猪木の入場曲「炎のファイター」(イノキ・ボンバイエ)がランクインするような一大事だが、果たして真相は?

 マスカラス人気の実情も含め、こちらの真相に迫りたい(文中敬称略)。

「千の仮面」

“千の顔を持つ男”や”仮面貴族“の異名で知られるミル・マスカラスは1942年、メキシコ生まれ。プロデビューは65年で、6年後の71年2月18日に初来日を果たした。その日、マスカラスが降り立つ羽田国際空港(当時)には、100人を超える若い少年や青年ファンでゴッタ返した。実はマスカラスの人気は、リアルな初登場前から、日本では既に大爆発していたのである。

 仕掛け人は、後のプロレス専門週刊誌「週刊ゴング」の編集人である竹内宏介。前身の「月刊ゴング」を創刊した1968年、先輩のプロレス記者から、マスカラスの噂を聞いたのだ。

「なんでも、試合ごとに、マスクを変える選手がいるらしい」

 まさに“千の顏を持つ男”の通り名そのものだが(ミル・マスカラス自体、スペイン語で、「千の仮面」の意味)、元々、マスクマン好きだった竹内は、このコンセプトに参ってしまった。さっそく同年の「ゴング」9月号に、「ミル・マスカラスの謎」という3ページの記事を掲載すると、編集部に読者からのマスカラスの似顔絵や「もっと知りたい」と記された手紙がドッと到着。意を得た竹内は、それから件の初来日まで、「月刊ゴング」とその増刊号、さらには本誌の翌年発刊の「別冊ゴング」でも、マスカラスを特集し尽くした。

〈ミル・マスカラスのすべて〉(「月刊ゴング」1969年10月号)、〈その隠された正体を暴く!〉(「月刊ゴング」1969年6月号)などの特集記事はもとより、小説やカラーグラフを含めると、その数は「ゴング」創刊から約3年後の初来日までで、計47記事。毎号のようにマスカラスのピンナップが付録に付き、時にはポストカードやカレンダーが付くことも。来日前にもかかわらず、表紙になったこともあった。当時の同誌をたとえた、以下のフレーズは有名だ。

〈マスカラスのゴングか。ゴングのマスカラスか〉

 そして、前述のように多くのファンに囲まれて日本に降り立ったマスカラスは、翌日、日本での第1戦を星野勘太郎とおこなった(後楽園ホール。プランチャで勝利)。立錐の余地のないほどのファンが詰めかけ、「過重積載なのか、エレベーターの1基が途中で壊れてしまっていた」とは、このときは少年ファンとして同試合を生観戦した、プロレス誌編集者の言葉である。

次ページ:起爆剤として入場曲を

前へ 1 2 3 次へ

[1/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。