夫の死で人生一転、遺骸の一部がホルマリン漬け標本に…明治を代表する「毒婦」たちの激動生涯
首を落とされた後に解剖
吉蔵とお伝の2人は蔵前の旅館丸竹に宿泊する。
〈兼て用意の髪剃を逆手に持ち吉蔵の上へ乗ッ掛り物をも言はず吉蔵の咽へ突き立て声を揚げると蒲団にて口を押へ二たび三たび抉り廻し漸く息絶たる……〉(東京日日新聞明治9年9月13日付)
だが、吉蔵の財布には11円しか入っていなかった。
お伝の逮捕は、明治9年9月9日。同12年1月31日東京裁判所は、斬罪の判決を下した。その日のうちに、市ヶ谷監獄内の刑場に引き出され、山田浅右衛門の手で首を落とされたが、話はそこで終わらない。遺骸は浅草の警視第五病院に運ばれ、解剖されたのである。局部は抉り取られ、ホルマリン漬の標本にされた。現在も東大に保存されているといわれているが、「お答えできません」(東大医学部)とのこと。
明治期、お伝への関心は長く持ち続けられ、〈吉蔵・お伝惨劇の宿丸竹の主人の家に奇形のチン生まれる 牡牝両体に分れ手足は八本耳四つ〉(読売新聞明治23年10月7日付)といった因縁話も盛んに報じられた。
新橋芸者の転落劇
1人殺しただけのお伝が“毒婦”と呼ばれたのは、芝居や講談で、関係した男を次々に殺す女に仕立てられたからだが、もう一人、“明治を代表する毒婦”といえば、元新橋芸者・花井お梅である。川口松太郎の『明治一代女』のモデルとしても有名である。
〈浜町の血騒ぎ〉(読売新聞・明治20年6月11日付)と報じられた箱屋峯吉殺しの花井お梅は、千葉・佐倉藩の元下級武士・花井専之助の娘として生まれた。9歳の頃、お梅は日本橋の置屋に売られる。15歳になると柳橋で初めてお座敷に出て、22歳の時、新橋に移った。
芸者として成功し、明治20年5月に、24歳で浜町に待合茶屋「酔月楼」を開業する。店の名義人は父・専之助にしたが、これが事件のキッカケになる。店の経営を巡り、専之助とお梅が対立し、お梅は店を飛び出した。
お梅は箱屋として峯吉という男を雇っていた。箱屋とは三味線を運んだり、着物の着付けを手伝ったりする使用人のことである。その峯吉を自分の味方だと信用していたが、他所でお梅の陰口を叩いているのを知る。お梅は逆上した。呼び出すと、峯吉はあろうことかお梅に言い寄るのである。
〈私しに随へ、私しの言ふことを聞けば仲裁してやると言ひました〉(読売新聞・明治20年11月20日付)
自分と関係を持てば、専之助との間を取り持ってやる、という。だが、ことは思わぬ展開になる。お梅の懐には何かことが起きた時のために出刃包丁が入っていた。
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