夫の死で人生一転、遺骸の一部がホルマリン漬け標本に…明治を代表する「毒婦」たちの激動生涯
「毒婦」とは悪知恵に長け、人に害を与えるような女性を指す言葉だが、なぜか人を引き付ける妖しい引力がある。明治から昭和の頃、日本では多数の「毒婦」が報じられ、小説や映画の題材になることも多々あった。いまも頻繁に語られる阿部定のその1人だ。では、他の面々は? 「週刊新潮」のバックナンバーから「毒婦史」を紐解く。
(全2回の第1回:以下、「週刊新潮」2009年11月26日号「09年版 日本の毒婦130年」を再編集しました。文中の役職、年齢等は掲載当時のものです)
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【写真】目が離せない…明治の毒婦「高橋お伝」を演じた「大物女優」
谷中に建つ「お礼の石碑」
谷中霊園は川上音二郎、渋沢栄一、鏑木清方、横山大観、上田敏など歴史上の人物が数多く眠っていることで知られる。そんな霊園の中で一際目立つ墓がある。
墓石にはこう刻まれている。〈高橋お傳の墓〉そう、“毒婦”の代名詞となった高橋お伝の墓である。正岡子規は、「猫の塚お伝の塚や木下闇(こしたやみ)」と詠んでいるが、実際に納骨されているわけではないので、碑と呼ぶべきものである。
明治14年、三回忌の折に建立された。世話人は仮名垣魯文。『高橋阿伝夜叉譚』の著者である。墓の裏に刻まれた寄附者には、歌舞伎の守田勘彌、尾上菊五郎、市川左團次、落語の三遊亭圓朝、三遊亭圓生などの名も見える。
「お伝の芝居を打って当たったので、その御礼として建てた、と聞いています」(谷中の郷土史家・加藤勝丕氏)
いずれにせよ、その名を今に残すお伝とはどんな女性だったのだろうか。
婿養子の病死で人生一変
〈浅草蔵前片町の丸竹といふ旅人宿にて一人の男を殺した女〉(読売新聞明治9年9月12日付)
と、報じられた古着屋・後藤吉蔵殺しのお伝は、嘉永4(1851)年、上州下牧村(現在の群馬県利根郡みなかみ町)の農家で生まれた。幼い時、高橋家に養女に出され、長じて波之助という男を婿養子にとった。ところが、波之助が病に罹る。
明治2年、2人は上京する。薬代や生活費を捻出するため、お伝は旅館や料理屋で働くが、同5年、波之助は病死した。そこからお伝の人生は一変する。絹商人・小沢伊兵衛の妾になり、神田仲町で同棲を始めたが、その一方で、ブローカーまがいの小川市太郎を情夫にしたり、とそれまでと違う顔を見せ始める。
他人から金を借りては市太郎に貢いだが、すぐに首が回らなくなる。窮したお伝は、一計を案じる。知り合いの古着屋・後藤吉蔵を呼び出し、金を奪おうと考えたのだ。
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