「税務署の職員はスミからスミまで読んでいる」との噂も…伝説の週刊誌連載「CLUB」欄が報じ続けた「銀座の歴史」
クニさんの“銀座取材方法”
そんな「CLUB」欄の名物記者、クニさんこと國安輪記者に連れられ、銀座クラブの取材を経験した記者がいる。現在60歳代後半のAさんだ。
「あのころ、わたしは20歳代後半でした。クニさんの銀座取材に、連れていってもらったことがあります」
それは、ある有名クラブをめぐるスキャンダルめいた話題だったが、クニさんは、最初からその店に乗り込むのではなく、まず、どんな店なのかを、旧知のクラブへ行って、周辺の“予備取材”からはじめるのだった。
「その店で、クニさんは、奥に入らず、入口すぐの小さなカウンターに座り、横にママさんに来てもらっていました。そして『ママ、今日は水割り一杯で勘弁して。女の子(ホステス)も、いいから。すまないけど現金で払うので、領収書をもらえるかな』と頭を下げたうえで、いろいろと、目的の店の噂話を聞きだしていました」
てっきり、美しいホステスたちと同席できるのかと思っていたAさんは、拍子抜け。あとで聞くと、クニさんは、こう話してくれたという。
「奥のテーブルに座ってホステスが付くと、すぐウン万円だからね。いくら取材費があっても、足りない。そもそも普通は、あとで請求書が来て、会社が振り込むもの。銀座の客は大半が、社用族だからね。だけど、ぼくたちはそんな贅沢はできないから、取材のときは、現金払いで“学割”にしてもらうんだ。もちろん、なじみで、よく知ってる店でないと、こんな呑み方できないよ」
Aさんは、「どうやらクニさんは、そういう呑み方のできる店を何軒も、銀座に抱えているようでした」と、回想する。さらに、
「1978~1980年に、松本清張さんの、銀座を舞台にしたサスペンス小説『黒革の手帖』が週刊新潮に連載されました。このとき、取材源を極秘で松本先生に紹介したのが、『CLUB』欄の両記者です。先生は、さすがに銀座ホステスの実態までは、取材ルートがなかったので、おおいに助かったと、喜んでくださったそうです」
近年も、しばしばTVドラマ化され、米倉涼子の当たり役となった『黒革の手帖』の陰には、「CLUB」欄があったのだ。
連載が長引けば、当然、記者も老いる。しかも、毎晩、酒席がらみの取材で、締切日は完全徹夜である。まず岩本記者が現場取材を引退。福島清茂記者が加わり、國安・福島両記者の取材を岩本記者がまとめるスタイルとなった。だが、やがて岩本記者も完全引退。
その後、國安・福島コンビで連載は続くが、次は國安記者が引退。野村健記者が加わり、最後は、福島・野村コンビで、1997年8月7日号《銀座を捨てたホステスが選んだタクシー人生》で、最終回を迎えた。タイトルに《銀座を捨てた》とあることが、いかにも「CLUB」欄の終焉を思わせる。連載は、足かけ「22年」、「1076回」におよんだ。
最後の「CLUB」欄記者、福島清茂さん(75)は、「岩本さんもクニさんも、最後はきつかったと思います。でも『CLUB』欄は、銀座の最盛期からバブル崩壊の、さらにその後までを、見事に見届けたんだよね」と、懐かしむ。
岩本隼記者も、國安輪記者も、すでに鬼籍に入っている。活字になった原稿は、400詰め用紙で約1万枚。取材原稿は、ゆうに10万枚を超えていたという。いま、銀座は、高級ブランド店と外国人観光客でにぎわっている。有名クラブの閉店がつづき、チェーン店の飲食店も増えた。そんな銀座を、天上の岩本・國安両記者は、どんな思いで眺めているだろうか。
【第1回は「銀座“100年史”を彩った異色の週刊誌連載『CLUB』欄とは? 銀座の最盛期からバブル崩壊までを見届けた『担当記者』の素顔」週刊誌の歴史に残る名物企画誕生の舞台裏】





