「おすぎとピーコと川の字で寝た」 久米宏さんを「カープファン」にさせた親友は伝説のDJ 無名だったユーミン、佐野元春らを発掘
シャイな2人
林さんもシャイだった。親しい久米さんにすら入社前の個人史を明かさなかった一因だった。
林さんは「パックインミュージック(パック)」時代、スターだった。美声と完璧なアナ技術の持ち主だった。無名時代の荒井(松任谷)由実(72)の作品を売れるまで掛け続け、「この人は天才です」と何度も断じた。こんな人はいない。
佐野元春(69)のことも全くの無名時代からしつこいぐらいに紹介した。デビュー前のタモリ(80)も番組に引っ張り出した。深夜放送をサブカルの解放区にした。
1993年、林さんをインタビューする機会を得た。当時は平日午後のワイド番組「林美雄アフタヌーン ~オーレ!チンタラ歌謡族」(1993年)を担当していた。インビューは番組の中身を一通り聞いて終わった。
しばらく後、林さんとTBSラジオのスタッフと一緒に酒を飲みに行った。だが、林さんは最初の約1時間、ほとんど話さない。ひたすら飲んでいる。場所は同局に近い東京・赤坂の居酒屋。気まずい時間だった。
そのうち、こちらがかなりラジオを聞いていたと知ると、やっと口を開いてくれた。「どの番組が好きだった?」「どこが良かったんだ」。
ラジオの話で盛り上がった。お開きになると、林さんから「新宿へ行かないか」と声を掛けられた。林さんは邦画界や演劇界にも顔が広かったから、おそらく新宿ゴールデン街だろう。
驚いた。そのころの林さんは大御所だ。アナが親しくもない記者を飲みに誘うなんて考えられない。スタッフが慌てて止めたので異例の2次会は消えたが、打ち解けた途端、親しみやすくなる人だった。
久米さんも林さんも初めて持った番組は「パック」。担当したのは1970年の金曜2部(午前3~同5時)。久米さんの後任が林さんだ。とはいえ、久米さんは1か月(5回)しかやっていない。社内の健康診断で結核と診断されたためである。
久米さんの「パック」は大人気だった。武器となったのはシモネタである。
「『途中で寝かせてなるものか』と全編シモネタの超エンターテインメント。家族にも親戚にも聞かせられない。いつ上司が止めに入ってもおかしくなかった」(『久米宏です。ニュースステーションは--』)
意外かも知れないが、久米さんは「ラジなん」でもシモネタを口にしていた。もちろん、ソフトなものである。
久米さんはテレビとラジオのトークを分けていた。特性の違いが分かっていた。だから、どちらでも成功したのだろう。両方で成功したアナは故・土居まさるさん、故・みのもんたさんら僅かだ。
「パック」を病気降板した久米さんは打ちひしがれた。仕事らしい仕事はなかった。だが、ここで大きな出会いが待っていた。相手は故・永六輔さんである。
久米さんは「永さんがいなかったら、今ここにいない」(「ラジなん」2020年6月13日)と言うほど感謝していた。永さんは久米さんを「永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO」に招いた。永さんが以前から久米さんに関心を抱いていたからだ。
永さんは久米さんにこんなことを説いた。「番組を送り出す人間は、自分自身の考えや主張をしっかり持って、それを曲げてはならない」。久米さんは永イズムの一部を受け継いだ。
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