「三冠王」も移籍先が決まらず…「現役続行希望」も行き先が決まらなかった名選手たち
野球観が違う
2000本安打達成後も現役続行を望みながら、叶わなかったのが、“満塁男”の異名をとった駒田徳広である。
巨人時代の1983年4月10日の大洋戦、初回のプロ初打席でNPB史上初の初打席満塁本塁打を記録した駒田は、4度にわたってチームの優勝(日本一1度)に貢献。94年に横浜にFA移籍後も同年から6年連続満塁本塁打を記録し、98年には球団の38年ぶりの日本一に貢献するなど、長く主力として活躍した。
だが、12年連続100安打以上を達成し、打率.291をマークした99年オフ、年俸2000万円ダウンと冷遇され、自分の居場所がなくなりつつある寂しい気持ちを抱いた。
さらに通算2000安打まであと「30」に迫っていた翌00年6月18日の広島戦、6回2死一、二塁の打席で、権藤博監督から「代える」の一言もなしに代打を送られた駒田は、「チームには申し訳ないが、僕と同じことをされたらどうするかってこと!」と、ヘルメットとバットをグラウンドに叩きつけて、怒りを爆発させた。
実は、前年10月に駒田がチームのあり方について、野手陣の不満を代表する形で意見を述べて以来、権藤監督とのコミュニケーションはなくなっていたという。
心配した山下大輔ヘッドコーチが「2000本という目標があるじゃないか。今日は帰っていいから」と気遣うと、駒田はスタンドで観戦していた家族を連れて、試合中に帰宅した。
ところが、この行動が「無断帰宅」「職場放棄」と報じられ、報道陣に「野球観が違う」と発言したことも首脳陣批判と受け止められてしまう。
翌19日、球団から罰金30万円と2軍降格のペナルティを科せられた駒田は、7月18日に再登録されると、9月6日の中日戦で目標の2000本安打を達成したが、同22日、チームの活性化を理由に戦力外通告を受けた。
「これじゃまるで、2000本安打を打つために野球を続けてきたみたいじゃないか」と納得できない駒田は「可能性があれば、せめてもう1年」と現役続行を望み、移籍先を探した。
だが、38歳という年齢や高年俸がネックとなり、一度は近鉄から声がかかるも、話は白紙に戻った。
そして、年明け後の01年1月18日、2日後に球界の大物OBも多数出席して、2000本安打達成を祝う会が開かれることなどから、「誤解を招くようなことはしたくない」と現役引退を発表した。
引退は死んだ時
事実上、選手としてのキャリアは終わったはずなのに、現役引退を表明していないのが、中村紀洋である。
野球人生を暗転させる事件が起きたのは、DeNA時代の2014年5月6日の巨人戦だった。1点リードの8回無死一塁で打席に入った中村は、「自身の判断で盗塁してもよい」とベンチから指示されていた一塁走者・梶谷隆幸の動きが気になって打撃に集中できず、三ゴロ併殺打に倒れた。
試合後、「負けている場面ならわかるが、ここは(自分の打席に)集中したかった」と発言したことが中畑清監督の耳に入り、采配批判と受け止められてしまう。
中村は2年前にも打席中に二盗を決めた内村賢介を「なぜ盗塁するのか」と非難して2軍落ちしており、2度目であることを重く見た球団側は無期限2軍のペナルティを科した。
そのまま2軍でシーズンを終えた中村は、10月3日に戦力外通告を受けると、現役続行を表明し、12月2日に自由契約公示を受けた。
オリックス退団後の07年は2月に育成選手として中日入り、楽天を自由契約になった11年も5月にDeNA移籍が決まったが、すでに40歳を過ぎていた中村に対し、オファーを出す球団は、登録期限ギリギリの7月31日になってもなかった。
だが、中村は「引退は死んだ時。体が動くうちはチャレンジしつづけることが本来の生き方」と“生涯現役”を宣言して現在に至っている。
元阪神、オリックスの井川慶も「どうせなら辞めるって言わないで、できるところまでやってみたい」と引退宣言をしていない。
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