「大型契約」がムダになった…他球団に移籍して“株”を下げた助っ人列伝

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金をやるから出て行け

「最も期待を裏切った男」として今も語り継がれているのが、1997年にロッテから巨人に移籍したエリック・ヒルマンだ。

 ロッテ時代の95年に12勝、97年に14勝と2年連続二桁勝利を記録した208センチの長身左腕は、96年のシーズン終盤まで防御率1位をキープしながら、チームメイトの伊良部秀輝に逆転でタイトルを獲らせるための露骨な起用法に不満を抱き、総額5億円の2年契約で巨人に移籍した。
 
 15勝を目標に掲げたヒルマンは当初新背番号「105」を希望し(最終的にロッテ時代と同じ42番)、「そのくらい勝ってくれれば御の字」と長嶋茂雄監督を喜ばせた。

 だが、97年は開幕から肩の違和感を訴え、2軍戦登板もドタキャンするなど、迷走が続く。5月7日のヤクルト戦でようやく1軍初登板となったが、5回を8安打2失点で負け投手に。同14日の広島戦も初回に7球投げただけで肩の違和感を理由に早々と降板してしまう。

 その後も肩は良くならず、シーズン中に帰国して内視鏡手術を行った結果、たった2試合計6イニングの登板で終わった。

 翌98年も春季キャンプ中に「左肩に(体重285キロの)小錦が乗っているようだ」の迷言を口にして単身帰京するなど、“仮病説”も囁かれるなか、1試合も登板しないまま、5月30日、激怒した渡辺恒雄オーナーに「金(5億円)をやるから出て行け」と解雇された。

 そして、帰国後、左肩回旋筋腱板の全層断裂の重症だったことが判明し、メジャー復帰も叶わず、寂しく現役引退となった。

過去の実績は当てにできない

 3年連続首位打者を獲得したのに、移籍後は“安打製造機”の本領を発揮できずに終わったのが、アロンゾ・パウエルだ。

 中日時代の1994年から96年まで外国人選手では史上初の3年連続首位打者に輝き、“恐竜打線”の一角を担ったパウエルは、本拠地が広いナゴヤドームに変わった97年は、安打数増加が期待されたにもかかわらず、左膝故障の影響で、打率.253、14本塁打と成績ダウン。不安定な外野守備も“ドーム野球”のネックとなり、あっさり戦力外となった。

 だが、捨てる神あれば拾う神あり。5年連続Bクラスからの脱出を目指す阪神がすぐさま獲得に動き、新4番候補として移籍が決まる。過去の実績がモノを言った形だが、皮肉にも、新天地でも左膝の故障が打撃に深刻な影響を与える。

 翌98年、オフに十分な走り込みができず、太めの体でチームに合流したパウエルは、4月3日の開幕戦、横浜戦に4番レフトで起用されるも、9試合で打率.103、2本塁打の大不振に陥り、早くもベンチ要員に格下げされてしまう。

 その後、5月10日からの6試合で25打数11安打と固め打ちし、打率を.298まで上げたが、全盛時の体の切れは戻らず、6月後半から再び代打要員に。また、動体視力の衰えも顕著で、中日をクビになったのも、これが理由だったという話も伝わってきた。

 我慢に我慢を重ねてきた吉田義男監督も、8月7日からのヤクルト3連戦で8打数、無安打、3三振、1失策とまったく結果を出せなかったことで見切りをつけた。直後、2軍落ちが決まると、パウエルは自ら退団を申し入れて帰国した。

 3年連続首位打者から2年も経たないうちに、このような寂しい幕切れを迎えようとは、日本の野球に慣れた助っ人といえども、過去の実績は当てにできないようだ。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘!激突!東都大学野球』(ビジネス社)。

デイリー新潮編集部

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