芸能記者を黙らせる「名コメント」の数々…昭和の大女優「若尾文子」の堂々たる取材対応とは
新橋演舞場の出口は2か所なので
とにかく、これで2人の仲は、“公然”となった。2人は、黒川氏が所有するマンションで同棲生活となり、いっしょの姿が目撃されるようになる。しかし、先述のように黒川氏には家庭があった。どうやら夫人が離婚に応じないようだと伝えられ、“不倫同棲”状態がえんえんと続いた。
その間、週刊新潮の報道も続いた。《若尾文子・黒川紀章が気にする「時間」》(1979年10月11日号)や、《街の掛け率~「黒川紀章・若尾文子」は結婚するか 9:1》(1981年1月15日号)などという、いまでは「不適切にもほどがある」記事が掲載された。
そんなジリジリした時間が「7年間」も続き、ついに《華麗な醜聞「七年目のケジメ」》(1984年1月12日号)となった。記事には、黒川氏夫人が離婚に同意したとの、友人の証言コメントが。ならば、いよいよ正式に入籍ではないか……さっそく芸能マスコミが一斉に動いた。特に某スポーツ紙が(いまではありえないことだが)黒川氏の住民票を確認してみたら、なんと2人が入籍していたことが判明。さらに大騒ぎとなった。
ところが、肝心の黒川氏はなぜか雲隠れ。若尾さんひとりが、舞台出演中の劇場入口で、即席の会見に応じたのだ。だが、ストレートヘアにサングラス姿の若尾さんは「仕事はこれからも続けますので…」と、口少なに語るのみだった。
週刊新潮でも、さっそく取材班が組まれた。「会見はあまりに中途半端だった。なんとか2人のどちらかに、ここに至った経緯を話してもらえないだろうか」と、編集長からの厳しい指示が飛ぶ。
このとき、若尾さん担当になったのが、若手記者のM氏だった(現在60歳代後半)。そのM氏の回想。
「このとき若尾さんは、新橋演舞場の新春公演、石井ふく子演出の『鹿鳴館物語』に出演中でした。共演は、10代目市川海老蔵(のちの12代目市川團十郎=当代團十郎白猿の父)という、話題の舞台です。もちろん、正式取材を申し込みましたが、拒否。そこで、終演後、新橋演舞場から出てきたところで話をうかがうしかないと思い、早めに偵察に行きました。ところが、新橋演舞場は、楽屋口と地下駐車場の出入り口が、まったく反対側に位置してるんです。どちらか一ヶ所で待っていて、ちがうほうから出てこられたらアウトです」
「もう、お話しすること、ありませんので…」
そこでM氏は、おなじ取材班の後輩、Y氏に助けを求めた。
「わたしが楽屋口で、Y君が駐車場口で待ち、おたがい、トランシーバーをもって連絡を取り合うことにしました」
いうまでもないが、まだ当時は、ケータイやスマホなどない時代である。段取りは、
「どちらかが若尾さんをキャッチしたら、なんとか、その場で話をうかがう。もし聞けない場合は、片方が先に、当時2人が住んでいた虎ノ門の高級マンションの前で帰りを待ち、もう一度、お願いする」
舞台公演、夜の部が終わり、寒空の下、M氏は楽屋口で若尾さんの出を待ちはじめた。ところが、意外と早く、駐車場口のY氏から、トランシーバーに連絡が。
「こっちでした! いま車で出てこられました」
「OK! じゃ、なんとか話をうかがってくれ。こちらは、念のため、マンション前で待っているから」
M氏は、すぐに虎ノ門のマンションへ先回りした。
「マンション前で、若尾さんの帰着を待ちました。やがて、付き人らしき女性が運転する車で、若尾さんが帰ってきました。Y君の姿が見えないので、たぶん、話はうかがえなかったのだと思い、もう一度、取材申し込みをしたのですが、『もう、お話しすること、ありませんので…』と、断られてしまいました。これ以上、しつこくしては、あまりに失礼なので、さすがに、ここで取材は終了しました」
しかし、肝心のY氏は、どこへ行ってしまったのか。
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