野球殿堂に落選 「川相昌弘氏」の功績はなぜ選考委員に伝わらなかったのか 「パワー全盛」の時代に薄れる「送りバント」の価値
発表前から賛否両論
正直なところ、まったく予想していなかったわけではない。発表前から、川相氏の殿堂入りには賛否両論があったからだ。最大かつ唯一と言っていい争点は、川相氏の犠打世界記録533個を殿堂入りに相応しい功績と見なすか否か、である。
「賛」とする側は表彰委員会規程第16条(1)「試合で表現した記録、技術が優れている者」に川相氏が該当すると主張。当然、私もその一人だ。様々なウェブサイトでは巨人OBで名監督としても知られた広岡達朗氏をはじめ、川相氏の現役時代を知る記者たちも今回の”落選”を批判している。
一方、「否」とする側は「バントの記録は評価の対象にならない」と結論づける。バントとは要するに”打てない打者””バントしかできない打者”がやらされるものだ。現にメジャーリーグでは犠打の数が日本よりはるかに少なく、川相氏の現役時代と同じ2番打者が長打や本塁打を量産している。エンゼルス時代やドジャース1年目の大谷翔平、大谷に1番を譲って2番に回ったムーキー・ベッツが最たる例だ、と。
さらにこれに対し、「賛」とする側は、一概に現代の傾向や潮流を昔の選手に当てはめて判断するべきではない、と反論している。実際、川相氏が儀打数を伸ばした1989年から2000年代序盤までは、阪神・和田豊、ヤクルト・宮本慎也、中日・井端弘和など各チームにシーズン2桁の儀打数を記録する”いぶし銀”的2番打者がそろっていた。当時、「王者」と呼ばれた時代の西武でも、主力打者の石毛宏典が在籍14年で通算214個の送りバントを決めている。
「職人」への転機となった試合
もっとも、川相氏は83年にプロ入りした当初、実はバントを苦手にしていた。岡山南高校時代はエースで5番だったので、バントはほとんどやったことがなかったからだ。若手の頃は、大事な場面で何度も走者を送るのに失敗していたという。
私が取材した範囲内で言えば、「バント職人」への転機となったのは89年7月2日のヤクルト戦(神宮球場)だろう。
2番ショートで先発出場したこの試合で、川相氏は2打席連続本塁打を放った。ところが、4-4の同点で迎えた9回1死二、三塁で川相氏に第5打席が回ってくると、藤田元司監督が出したサインはスクイズバント。川相氏がこれを成功させて巨人が勝つと、翌日のスポーツニッポンはホームランではなく、片膝を突いてバントを決めた川相氏の写真を1面に掲載した。
この年、巨人は前年に王貞治監督を”解任”した影響で、ファン離れが心配されていた。藤田監督は長嶋茂雄監督の後を受けた81年にも巨人の指揮を執り、優勝させている。この年も勝たなければ”球界の盟主”の威信と人気は地に落ちるとまで言われていた。
そうした中、藤田監督はバッテリーを中心とした「守りの野球」を掲げ、「相手よりも1点多く取って勝つ」方針を表明する。そうした”藤田野球”において、川相氏は誰よりも確実に走者を送り、アウトを取れる遊撃手を目指した。結果、巨人はこの89年、リーグ優勝と日本一を達成し、川相氏は初めてゴールデングラブ賞を受賞。のちに6度受賞する名手へ飛躍するきっかけを掴んだ。
1点を争う接戦の緊張感溢れる勝負どころで、絶対失敗できないバントを決める。これも野球というゲームの醍醐味であり、川相氏はスモールベースボールの象徴的存在となった。89年に主力選手となって以降、巨人で通算5度のリーグ優勝と3度の日本一に貢献。ある意味、”常勝”を義務づけられ、今よりもまだ”盟主”としての地位が高かった時代が生んだプレーヤーと言ってもいい。
[2/3ページ]


