毒殺を恐れて自炊? 徳川家のマル秘エピソードを、徳川宗家19代当主が明かす 「豊臣兄弟!」を2倍楽しむための特別対談
【前後編の後編/前編からの続き】
今年のNHK大河ドラマは「豊臣兄弟!」。天下人・秀吉を支えた実弟の豊臣秀長が主役である。しかし、秀吉の死後、四半世紀を待たず豊臣家は滅亡。その驚愕(きょうがく)の理由を徳川宗家19代当主の徳川家広氏と『論争 大坂の陣』著者で近世史家の笠谷和比古氏が語り尽くす!
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前編では、家康が豊臣家に対して敵対的になった理由などについて、お二人の見解を聞いた。
――焼死に加えて、昔は毒殺される危険があります。徳川さんのお毒見はいないのですか?
徳川 その恐れがないですから、さすがにもういませんね(笑)。毒殺を恐れて食事を一人で取らないという将軍家の慣習も、明治維新とともになくなったそうです。ただ、最後の将軍であった徳川慶喜は、引退後も自炊をまめにしていたという話があって、「毒殺を恐れていたからではないか」と捉える専門家も多いようです。慶喜公は政治的な人物であったため、なおさら警戒していたのかもしれません。
笠谷 なにか「これは食べてはならない」という注意書きなどはないのですか。
徳川 「好き嫌いはいけません」とは言われて育ちましたよ。徳川家康が食あたりになり体調を崩して死に至ったといわれる「鯛の天ぷら」はどうなんですかと指摘する人もいるのですが、そもそもその料理を出す店は少ないですし……。
笠谷 毒殺が原因では?という臆測は、豊臣恩顧の大名であった加藤清正の急死にもあります。清正は二条城で豊臣秀頼に付き添って徳川家康と会見した3カ月後に亡くなっていますが、「秀頼のお毒見をして、毒饅頭をくらった」という説があります。
徳川 しかしながら、3カ月後というタイミングでじわじわ効果が出るように毒を調合するのは困難ですから、事実は、清正は家康と秀頼の二条城会見を成功させて、安心して死んでしまったのかもしれません。
笠谷 それは有り得ますね。緊張の糸が解けてそのまま急死した……。
大坂方は脇が甘かった
徳川 当時の年齢に15から20足したのが今の年と考えるのが的確ですから、清正は50歳プラス20で70歳。そう考えると、家康は亡くなったのが75に20足して95歳ですから、大変な長寿、つまりはこちらもいつ死んでもおかしくなかったわけです。
笠谷 そんな年齢になっても、家康はむしろお人よしだったともいえるほど、秀頼に気を使っています。あのままでは、踏ん切りがつかないまま、亡くなっていたかもしれません。
――ところが、そこで「国家安康」「君臣豊楽」という銘文が豊臣家普請の方広寺の鐘に刻まれたことが大問題になります。1614年のことです。
笠谷 家康の取り巻きの腹黒い家臣たちが目を皿のようにして文言を探し出したという「言いがかり」説が広く知られていますが、なんてことはない、豊臣家から依頼されて文面を考案した禅僧・清韓(せいかん)が自ら「両者の名前を用いた」と幕府の取り調べに答えている。当時、実名は「忌み名」と言うように、あからさまに表記することは非礼だったのですが、加えて鐘に刻印したことで、呪詛ではないかと疑いを持たれました。
徳川 大坂方は脇が甘かったというか、チェック機能が働いていなかったといえますね。
笠谷 あるいは、前もって徳川側に「このような文面を刻みます」と見せていれば、こんなことは起こらなかった。大坂の陣は起こらず、豊臣家存続もあり得たかもしれません。と考えると、豊臣家滅亡の引き金を引いたのは、博識だけれども浅慮であった清韓と言ってもいいでしょう。
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