毒殺を恐れて自炊? 徳川家のマル秘エピソードを、徳川宗家19代当主が明かす 「豊臣兄弟!」を2倍楽しむための特別対談

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「すんなり徳川家が西郷さんに江戸城を開城したのは……」

――関ヶ原の戦いから15年を経て、豊臣恩顧の猛者たちは亡くなって、子供たちの世代となり、結局のところ、大坂方に付いた大名は一人もいませんでした。真田信繁(幸村)や長宗我部盛親、毛利勝永など改易された元大名と牢人だけが秀頼の下で戦いました。

徳川 御著書『論争 大坂の陣』の最後の箇所、秀頼が淀殿らの懇願を振り切り、最後まで戦い通して死を選んだところは涙なしには読めませんでした。

笠谷 秀吉にかわいがられた大名の中で、加藤清正、浅野長政は死んでしまい、福島正則は江戸に留め置かれていましたが、他の豊臣系武将は大坂夏の陣で東軍として参加しました。黒田長政と加藤嘉明はかつて忠誠を誓った豊臣家の最期を見届けたいと強く懇願し、徳川秀忠の陣屋に詰めて、相談役やお話し相手という立場で戦況を見守っていました。

徳川 徳川20万と豊臣10万の兵力差がありましたが、夏の陣での実際の戦闘で秀忠の周りでは大変なことが起こり、彼らは戦局の危機で決定的な役割を果たすのですね。

笠谷 はい。秀忠軍は攻城軍の右翼に布陣していましたが、このとき黒田と加藤は直接戦闘には参加せず、秀忠の本陣で戦況を眺めている状態でした。しかし、家康本陣の正面に布陣した大坂方武将・毛利勝永の突撃により、前田利常や井伊直孝、藤堂高虎、細川忠興といった部隊が家康救援に回ってしまい、秀忠の本陣の旗本部隊(警備部隊)が手薄になりました。この旗本部隊は実戦経験ゼロだったのですが、この機に乗じて西軍の大野治房率いる別働部隊が秀忠本陣を狙って迂回(うかい)攻撃を仕掛けてきたのです。

徳川 秀忠の本陣が崩壊寸前に陥ったと。

笠谷 ええ。しかし、この極めて危険な局面で、秀忠の陣に控えていた黒田と加藤の二人が陣頭指揮し、彼らの働きによって、秀忠の本陣は崩壊を免れ、結果的に徳川軍の勝利に貢献しました。

徳川 なるほど。豊臣恩顧の大名が、徳川家の次の棟梁である秀忠を救うという、象徴的かつ実務的な大功を立てたわけですね。

――結局、その後、秀頼が徹底抗戦を唱えて、大坂城は落城、豊臣家は滅びます。しかし、かつて豊臣秀長の居城だった大和郡山城への退去を勧めたり、家康は孫娘の嫁ぎ先である豊臣家の存続を条件付きながら認めようとしていたところもあります。

笠谷 淀殿は「もう戦いはやめてくれ。自分は人質として江戸へ行く」と言ったのですが、秀頼は「そういう泣き言はわが髑髏に言ってくれ」と、淀殿の嘆願を突っぱねたのです。さらに、「冬の陣の後、だまされて堀を全部埋められた。郡山城への転封はわなだ」という牢人衆の主張もあり、結局、大坂城を枕にして戦うことになってしまった。

徳川 牢人衆に感化されてしまったとはいえ、秀頼も自分の死ぬ場面を考えていたのでしょうか、立派な戦国武将だったわけです。とはいえ、「天下の名城」を明け渡すか否かはそれほど大きなことだったわけで、300年後、すんなり徳川家が西郷さんに江戸城を開城したのは、豊臣滅亡からの教訓なのかもしれませんね(笑)。

 前編では、家康が豊臣家に対して敵対的になった理由などについて、お二人の見解を聞いている。

笠谷和比古(かさやかずひこ)
1949年神戸生まれ。京都大学文学部卒業。同大学院博士課程修了。博士(文学)。国際日本文化研究センター名誉教授。専門は歴史学、武家社会論。著書に『主君「押込」の構造』、『論争 関ヶ原合戦』、『近世の朝廷と武家政権』など。

徳川家広(とくがわいえひろ)
1965年東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、米ミシガン大学で経済学修士号取得、国連食糧農業機関(FAO)ローマ本部とベトナム支部での勤務を経て、米コロンビア大学で政治学修士号を取得。2021年6月より公益財団法人徳川記念財団理事長。2023年1月より徳川宗家第19代当主。

週刊新潮 2026年1月15日号掲載

特別対談「大河ドラマ『豊臣兄弟!』 なぜ豊臣家は滅んだのか」より

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