豊臣家が滅亡した驚愕の理由を徳川宗家19代当主と歴史学者が語り尽くす! 大河ドラマ「豊臣兄弟!」を2倍楽しむための特別対談

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【全2回(前編/後編)の前編】

 今年のNHK大河ドラマは「豊臣兄弟!」。天下人・秀吉を支えた実弟の豊臣秀長が主役である。しかし、秀吉の死後、四半世紀を待たず豊臣家は滅亡。その驚愕(きょうがく)の理由を徳川宗家19代当主の徳川家広氏と『論争 大坂の陣』著者で近世史家の笠谷和比古氏が語り尽くす!

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――1月4日からNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」が始まりました。これを記念して、徳川宗家第19代当主の徳川家広さんと、豊臣家滅亡までの過程を追った『論争 大坂の陣』(新潮選書)著者の笠谷和比古先生のお二人に、「あれだけ隆盛を極めた豊臣家が、秀吉の死後、20年を経ずに滅んでしまったのはなぜか?」をテーマに、お話しいただきたいと思います。

 新大河ドラマでは、仲野太賀演じる秀吉の実弟・秀長が、池松壮亮による秀吉を支え、天下統一までサポートするストーリーを描きます。「歴史にif(もしも)はないものの…『秀長が長生きしていれば豊臣家の天下は安泰だった』」とNHKホームページにある通り、名補佐役としての役割に焦点をあてるようです。そのような観点で、最初に秀長を取り上げたのは、元通産官僚で作家の堺屋太一ですが、ずばり、秀長がもっと長生きしていたら、豊臣家は存続していたでしょうか?

笠谷 間違いなくその可能性が高いでしょうね。豊臣政権の致命傷となったのは「朝鮮出兵」と「秀次事件」の二つです。いずれも秀長が死んだ(1591年)後のことで、彼が生きていれば、秀吉と淀殿との間に生まれた鶴松(秀頼の兄)が死んだことが契機となったともいわれる朝鮮出兵(1592年~)を止めることは難しかったかもしれませんが、秀吉の甥っ子一族を皆殺しにした秀次事件(1595年)のような陰惨なことは起こらなかったと思います。

徳川 秀長がいれば、あのような粛清はなかったと。

笠谷 ええ。秀長には野心がなく、秀吉もそれを信頼していましたから、秀長が秀頼の後見役になれば安心でした。しかし、秀長がいないため、秀吉は秀次の力を完全にそがなければ秀頼への継承が安心できなかった。その結果が、あの一族皆殺しの根絶やし作戦です。秀長がいれば、あそこまで極端なことにはならなかったはずです。結局、秀次事件が豊臣家滅亡の遠因になっているのは間違いないです。

――ドラマでは豊臣家内の家族模様も描かれるようです。秀吉の正妻・寧々は浜辺美波、秀長の「初恋のひと」は永野芽郁の予定が変更されて白石聖に、妻は大河初出演の吉岡里帆が演じますが、ずっと後に登場する悲劇的な秀次の役柄はまだ発表されていないようです。そもそも、なぜ秀吉は秀次を「予備」として生かしておかなかったのでしょうか?

笠谷 当初、秀吉は秀次に家督と関白職を譲り、秀吉自身は太閤として大陸出兵し、のちに引退するつもりでした。しかし、朝鮮出兵の翌年に秀頼が生まれたことで状況が一変します。秀次は跡取りとして微妙な立場となりました。秀次の跡継ぎを秀頼とすることで、秀次も承知しました。しかし秀次には実男子が4人もいたのです。秀吉にしてみれば、自分が存命のときであれば、秀次がいい子になるのは当たり前です。秀頼に代を譲る誓約書をいくらでも書くでしょうが、亡くなってしまえば、秀頼が亡き者にされるのは必定でしょう。落馬、井戸に落ちるといった事故死を装うことや毒殺はいくらでもできます。

徳川 秀吉は自分と同じように秀次も「欲しいものを手に入れるためには手段を選ばない」と自己を投影して見ていたのでしょうね。それを止めるブレーキ役の秀長がいなかったのが大きいです。

才能と思惑の信長&秀吉、人事の家康

笠谷 私は、秀吉の脳裏に飛鳥時代のクーデター「壬申の乱」がよぎったのではないかと考えています。かつて天智天皇が息子に皇位を継がせるため、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)を自ら出家させる形で吉野に追いやりましたが、結局、大海人皇子は挙兵して近江朝廷を滅ぼしました。秀吉が壬申の乱を知っていたかということですが、「能狂い」だった秀吉はこの争乱を扱った演目『国栖(くず)』を知っていました。「秀次が出家して高野山に引退しても、自分が死んだ後に挙兵して秀頼を滅ぼすかもしれない」という疑心暗鬼に駆られて、あのような暴挙に出たのだと推測しています。

徳川 秀吉自身、織田家を乗っ取って権力を手にしていったので、その過程を見ていた秀次もそうするのではないかと秀吉は疑っていたかもしれません。そして、自分で自分の家系を根絶やしにし、結局、北政所(寧々)の血筋しか残りませんでした。

笠谷 そうですね。寧々のお兄さんの木下家定の家系が大分県の日出(ひじ)と岡山県の足守(あしもり)の2カ所に小藩として存続することになりましたが、これは木下の名字ではあるものの、秀吉の血筋ではなく、杉原家の流れになります。そういう意味では、豊臣もしくは羽柴の直系はすでに滅んでしまいました。

徳川 豊臣・織田の前例から「これはやっちゃいかん」ということを肝に銘じ、「小人閑居(しょうじんかんきょ)して不善(ふぜん)をなす」と言いますが、徳川は御三家にしても、西の丸にいる跡取りとは別に、将軍の家臣として藩を治めるという仕事を与えています。日本全国の統治の枠組みに、将軍継承のシステムを組み入れたのです。関ヶ原以前は、豊臣秀吉に比べて徳川家康の軍事カリスマは甚だ見劣りしますし、源氏の名門でもないので、正統性を獲得するために工夫しなくてはならなかった。その努力によって「ひょうたんから駒」で係累をうまく縛るという仕組みが結果として作られたのだと思います。

笠谷 信長や秀吉が自分の才能と思惑で権力を掌握したのに対して、人事の仕組みをきっちりと考えるのが家康流、家康の家康たるゆえんでしょう。

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