【豊臣兄弟!】ドラマで描かれた生家そのままに 豊臣兄弟が極貧に陥っていた理由
4人きょうだいは同じ父の可能性
よく引用される『太閤素性記』には、秀吉の父は、信長の父である織田信秀に足軽として仕えていた木下弥右衛門だった、と書かれている。だが、弥右衛門は「秀吉八歳」のときに死去したので、のちに大政所となる秀吉の母「なか」は、筑阿弥という男と再婚。その2人のあいだに、秀長と「あさひ」が生まれたとされている(以下、女性の名は、同時代にそう呼ばれていたかどうか確定していないが、わかりやすさを優先して「豊臣兄弟!」での呼称で記す)。
だが、秀吉が生まれたのは天文6年(1537)2月6日で、秀長は同9年(1540)の可能性が高い。そうであれば3つ違いの兄弟なので、木下弥右衛門は秀吉が8歳のときに死んだのが事実だとすれば、秀長の父も弥右衛門でなければおかしい。こうしたことから最近は、秀吉と秀長は同父兄弟だと考える研究者が多い。
また、姉の「とも」は弥右衛門の子でまちがいないだろう。彼女は長生きで、寛永2年(1625)4月24日に没し、享年は92とも94ともいう。だが、公家の小槻孝亮が記し、比較的信頼のおける『小槻孝亮宿禰日記』の記述を優先するなら、天文元年(1532)の生まれで、秀吉より5歳、秀長より8歳年長だったことになる。
そして妹の「あさひ」。のちに徳川家康の正室に迎えられたものの、天正18年(1590)1月14日、京都の聚楽第で病死し、享年は48だったという。すると天文12年(1543)生まれなので、秀吉より6歳、秀長より3歳年下ということになる。木下弥右衛門の没年が前述のとおりであるなら、彼女も弥右衛門の娘であっておかしくない。
では、どうして、このきょうだいたちの家は、貧しくなってしまったのだろうか。
父が引退・死去して家が傾いた
先に彼らの父親、すなわち木下弥右衛門は、貧しい百姓だったと言い切れない、と書いた。彼の妻、すなわち、きょうだいの母親である「なか」は、尾張国御器所村の土豪の娘だったと推定されているから、なおさら貧農だったとは考えにくい。
現在、この弥右衛門はおおむね、織田信秀のもとに「在村被官」というかたちで仕えていたと考えられている。それは村に住み、農業にも勤しみながら領主に仕える武士、またはそれに準じる身分で、戦国時代には一般的だった。だが、一家の主が転べば、たちまち家は傾く。柴裕之氏はこう記している。「戦場で負傷または病のために出家・引退して死去、息子の秀吉・秀長はいずれも幼年だったこともあって、妙雲院殿(註・弥右衛門のこと)の家は働き手を失ったため凋落したというのが実態であったのではないだろうか」(『羽柴秀長』角川選書)。
さて、秀吉は前述のとおり、「若輩之時孤と成て」というから、「豊臣兄弟!」で描かれているように、若くして貧しい家を飛び出したのだろう。そして、放浪して薪を売るなどして生計を立てたのちに、いったん遠江(静岡県西部)の松下家に仕えたとされる。そして、小瀬甫庵の『太閤記』によれば、父親の縁で永禄元年(1558)9月から、清洲城(愛知県清須市)の織田信長のもとに仕えるようになったという。
そのころ、秀長がどうしていたかは、史料からはわからない。だが、しばらくして信長の家臣になったことが確認できる。やはり、貧しさが兄弟のバネになったのだろう。「身を山野に捨、骨を海岸に砕」という仕え方は、貧しさから抜け出て、さらには見返してやりたいという強い動機がなければ、なかなかできるものではない。そして、おそらくは、こうした努力を自身の出世につなげるだけの能力と運が、この兄弟にはあったということだろう。
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