「あいつが代わりに頑張ってくれた」 2017年引退「キタサンブラック」に「北島三郎」が当時捧げた深い感謝
第1回【名馬「キタサンブラック」の華麗なる引退 「まだ勝てる」とも考えた馬主・北島三郎、最後に選んだ“引き際の美学”】を読む
2017年の有馬記念を最後に、最強馬・キタサンブラックが惜しまれつつも引退した。馬主の北島三郎自身も、2013年にはNHK紅白歌合戦を勇退、2015年には座長公演からも身を引いている。そして2025年12月にはなんとYouTubeチャンネルを開設し、また新たなる道を切り開いた。
当時の北島に敢行したロングインタビューの第2回では、チャンスを求め続けた20代の頃の思い出や、紅白の大トリでも歌った名曲「まつり」への思い、そしてキタサンブラックへの感謝が語られている。
(全2回の第2回:「週刊新潮」2017年12月28日号「特別手記・伝説の『キタサンブラック』引退! 『北島三郎』が語る『引き際の美学』」を再編集しました)
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【写真】端正な顔立ちの「ハンサム競走馬」…まさに「神様からの贈り物」そのものだったキタサンブラック
なんだ、流しをやってたのかよ
歌手になるために上京したというのに、同級生に流しの姿は見せられないと思っていたんですが、ある日、渋谷の街中で「大野、大野」って本名を呼ばれたんです。渋谷で僕の本名を知っている人なんているはずがない。
しらばっくれたんですが、後を追いかけてくる。しょうがなく振り返ると、その声の主は、案の定、同級生でした。「なんだ、歌手になるって言って、流しをやってたのかよ」って言われて、その言葉が耳にこびり付いてしまいましたね。
〈もっとも、流しの歌手をするうち、大野青年の歌唱力は噂になり始め、日本コロムビアの関係者から作曲家・船村徹に引き合わされた。そして、門下生を経て、62年に「ブンガチャ節」(作詞・星野哲郎/作曲・船村徹)で念願のデビューを果たした。翌63年には「ギター仁義」(作詞・嵯峨哲平/作曲・遠藤実)で夢にまで見たNHK紅白歌合戦(第14回)に初出場。
この年は東京オリンピックを翌年に控え、日本中が熱気に包まれていた。舟木一夫「高校三年生」、梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」といったヒット曲が相次ぎ、紅白史上でも視聴率第1位、81・4%という驚異的な数字を叩き出した。歴史的なその大晦日は、津軽海峡を渡ってきた27歳の青年の夢が実現した日となった〉
初の紅白は最高の気分で歌った
初出場した時のことは、はっきり憶えていますよ。全然、アガらなかった。本当に不思議なくらい全然。私は颯爽と舞台に出ていって、“選ばれた歌手なんだから、一発ぶちかましてやろう”というぐらいの勢いでした。
〈「ギター仁義」の歌詞の中には「おひけえなすって」と仁義を切る箇所がある。コンプライアンスが厳しくなった現在のNHKならきわどい表現と受け止められるだろう。当時ですら「おひけえなすって」の際にはポーズは控えてくれ、と演出側から指示があったという〉
だけど本番になったら、忘れてついやっちゃったんです。もう最高の気分で歌いましたからね。緊張している暇はなかったです。
人間誰でも、生きていれば、何かの出会い、きっかけがあるんだと思います。そのチャンス、運を絶対に逃しちゃいけない。“運がいいな”と思ったときには進め、と僕は決めているんです。麻雀やっていてある程度勝つと、負けたくないからやめちゃうなんてことがありますよね。でも、それは運を止めちゃっていると思います。チャンスはそんなにない。そして、運と不運は裏表であって、もしも今が辛いのならば耐えろ。その先にはよい運が待っている。何もしなければ、何も返ってくるものはないぞ。そう考えています。
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