ビッグマウスが仇に…入団会見で話題を呼んだ新人選手の“大胆発言”

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登板わずか9試合で現役引退

 2000年の阪神4位・赤星憲広(JR東日本)も「(メッツに入団した)新庄(剛志)選手の穴は、僕が埋めます。目標は世界の盗塁王・福本(豊)さんです」とビッグな発言をぶち上げた。

「新庄さんの穴を少しでも埋められるように頑張ります」と言おうとして、緊張のあまり、語尾が変化してしまったのが真相のようだが、翌日のスポーツ紙がこぞってこの発言を大きく取り上げたことから、ドラ1右腕・藤田太陽(川鉄千葉)を完全に食ってしまった。プロ入り後は、この発言に恥じないようにとひたむきに努力し、“赤い彗星”として5年連続盗塁王、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞6回の一流選手になった。

 2010年のソフトバンク2位・柳田悠岐(広島経済大)も「(指名選手の中で唯一の大学生で)年上なので、最初に1軍のグラウンドに立ちたい。打率3割、30本塁打、30盗塁が目標です」と抱負を語った。5年目の15年にヤクルト・山田哲人とともにトリプルスリーを達成している。

 成功組とは対照的に、ビッグマウスで終わった“未完の大器”も少なくない。

 2004年にドラフト5巡目でヤクルトに指名された吉田幸央(城郷)もその一人だ。

 入団会見では「(メジャーに)絶対に行きたい。行きます。FAを獲って行きます」と早くもメジャー宣言をしたばかりでなく、「日本記録(当時158キロ)を抜いて160キロを出したい」「世界一の投手になる」など大言壮語を連発したが、会見から半年後に内臓疾患を理由にスピード退団となった。

 同年、ドラフト8巡目で阪神に入団したドラフト史上最年少の15歳右腕・辻本賢人(マター・デイ・ハイスクール中退)も「監督になるまで阪神にいたい」とビッグな目標を口にしたが、育成契約も含めて在籍5年で自由契約になり、1軍のマウンドで投げることなく終わった。

 1998年にドラフト7位で中日入りした白坂勝史(関東学院大)も、1年目のリーグ最多勝を目標に挙げ、「秋には山本昌さん、今中(慎二)さんと僕で左腕トリオと言われたら最高ですね」とぶち上げたが、1軍登板のないまま、台湾への野球留学も含めて在籍3年で退団となった。

 夏の甲子園で「次は完全試合を達成します」などの大胆発言を連発し、ビッグマウスが代名詞になった1997年のオリックス1位・川口知哉(平安)は、プロ入りに際しても、いきなり大ベテランの通算165勝右腕・佐藤義則がつけている背番号11を要求するなど、マスコミの話題を独占し続けた。

 だが、入団会見では「2、3年ファームで鍛えてから投げたい。できるだけ長くやれる選手になりたい」と意外にも堅実な目標を語っている。

 皮肉なことに、“未来のエース”は、1年目にコーチからフォームを改造され、本来の投球フォームを見失った結果、制球難に陥り苦闘の日々を送った末、1軍登板わずか9試合で現役引退となった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘!激突!東都大学野球』(ビジネス社)。

デイリー新潮編集部

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