これじゃ「永田町の町内会報」だ! コバホーク「番記者と仲良し」写真はなぜ「恥知らず」なのか
政治家の投稿は往々にして物議を醸す。直近で大いに注目を集めたのは、コバホークの愛称で知られる小林鷹之・自民党政調会長の11月30日のXへの投稿である。
「昨日51歳になりました。何歳になっても誕生日はありがたいものです。
多くの方に支えられていることに感謝しつつ、年相応の深みが出るよう研鑽を積んでまいりますので、皆さん、よろしくお願いいたします!
お祝いしてくれた番記者さん達と。」
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この文章と共にアップされているのが、19人の番記者らしき男女との記念写真。投稿は462万回表示されたとある(12月4日時点)から、通常の小林氏のそれよりもかなり反響は大きい。
もっとも、コメント欄には「お誕生日おめでとう!」よりも批判的なものが圧倒的に目立つ。
権力の監視役たる記者たちと、ここまでベッタリの姿をわざわざ可視化するセンスはどうかしている、記者たちの常識も疑う、恥を知れ――そんな声が多く寄せられているのだ。
ジャーナリストの烏賀陽弘道氏は、この投稿を受けて、自身のXで次のようにコメントを寄せている(12月3日)。
「この写真が証明しているように『番記者』とか呼ばれる連中は、ジャーナリストなどでは決してありません。日本以外には生存しない、極東の島国にしかいない(略)亜種ですね」
烏賀陽氏は元朝日新聞記者というキャリアながら、日本の記者クラブ制度や番記者制度を長年批判してきた。烏賀陽氏の近著著『プロパガンダの見抜き方』冒頭には、新人時代、先輩デスクから「企業や役所、政治家のプロパガンダに紙面を使わせてはならない」と教育を受けたというエピソードが登場する。これは朝日新聞特有のものではなく、報道に関わる者の原則と言えるだろう。
もっとも、「誰とでも仲良くしましょう」は、幼児の頃から叩きこまれる教えでもある。それゆえに「どうして身近な政治家と仲良くしてはいけないのか」と思う方もいるかもしれない。
なぜ小林氏は強く批判されているのか。また、記者たちの何が問題なのか。烏賀陽氏に批判の真意を含め、話を聞いてみた。
***
番記者という日本にしかいない亜種
まず、新聞・テレビ=「記者クラブ系マスメディア」の「政治部・番記者」という存在そのものが、社外の一般読者には極めて不可思議であるという点を押さえておく必要があります。西欧型民主主義国においては、極めて特殊な存在です。「日本以外には生存しない、極東の島国にしかいない~」と書いた理由はそこにあります。
朝日でも読売でも、政治家に厳しい記事を出すこともあるのでは? と思われる方もいるかもしれません。そういう方は、次のような新聞社内の事情をご存じないのです。
政治家に都合の悪いニュース・スキャンダルは「社会部・国会担当記者」が書いている、ということです。「政治部」の「誰それ担当記者」=「番記者」は政治家に都合の悪いニュースは書かない。そういう分業制度が存在しているのです。
まったく例外がないわけではありません。朝日新聞のある政治部記者は、小沢一郎氏の担当時代、番記者相手に発した彼の問題発言を記事化しました。その結果、小沢氏の怒りを買って、政治部から放逐されています。
永田町の町内会報
しかしこういうケースは稀です。政治部の番記者は批判的なことはもちろんですが、政策すらきちんと報じません。
彼らの取材のメインテーマはあくまで「政局」(誰が誰にどこで会った、密会したなど)です。その最高の名誉は「新内閣の組閣名簿を発表前に手に入れてスクープする」。
そんなものは半日か1日で発表されます。つまり、政治部番記者の特ダネ競争は「あいつは、次の閣僚が誰か、事前に知っていたんだ!」と「永田町の住人たち」を驚かせるためにあります。それ以外の一般読者には関係がありません。
つまり彼らが書いているものは「永田町の町内会報」にすぎないと私は考えます。
番記者は権力同士の連絡役
困ったことに、その程度のことに生涯、血道をあげてきた政治部記者が、朝日新聞はじめ新聞社の社長・経営幹部になるケースが多いのです。たとえば、福島第一原発事故に関連した吉田調書を巡る報道や、従軍慰安婦問題に関する報道を理由に辞任した木村伊量社長は長らく自民党の竹下派番記者でした。
政治記者は、永田町への「出向社員」のようなものだと私は考えています。そう考えた方が理解しやすいのです。
彼らは原義のジャーナリストではなく、政治権力とマスコミという権力をつなぐ「連絡将校」(リエゾン・オフィサー)のような存在、つまり「政治」と「マスコミ」という二つの権力機構を連結する役割なのです。
記者たち自身には「癒着」しているつもりなどまったくないでしょう。
彼らは政治家と「癒着」しているのではなく、最初から権力同士が結節するための「つがい(番)」としての社命を帯びている。政治部長、デスク、キャップなど上司たちが命じる通り、リエゾン(連絡役)として働いているのですから。
これは政治家相手に限らず、官公庁であっても記者クラブにいる記者には少なからず見られる傾向です。人事や昇給・昇格もそれに沿って行われますから、そうならざるを得ないようなシステムになっている。
当然、これは新聞・テレビが普段言う「建前」とは大きく乖離しています。
「マスメディアは権力を監視する役目を担っている。市民の知る権利を代行するために存在している。だから国会その他、公の機関に記者クラブを置き、取材を優先して行う権利がある」
というのが、彼らの「建前」です。そうなると、お得意先に出向している営業社員に等しい「リエゾン」、すなわち「番記者」の活動ぶりや存在そのものは、あまり表に出したくないものです。
しかし実際には、数多くの番記者がいる。内閣、政党、官公庁等々、あらゆるところに単なる「政治家や官僚など権力者の代弁者」のような記者がいます。そんな記者が多数いることそのものが、実は新聞・テレビが「権力機構の一角」であることを証明しているとも言えるでしょう。
私は政治家と記者クラブ系マスコミに、財界・学界・官僚を加えた5者を「日本の権力の五角形=パワー・ペンタゴン」と呼んでいます。
消えた「恥」の概念
ここまでに述べたことは、長らく新聞・テレビ、そして政治家との関係の「標準」となっている。それを考えれば、今回の小林氏との記念写真は、政治家・記者双方にとって決して「異常なこと」ではなく、むしろ「日常」ということになります。あくまでも彼らの認識では、という話ですが。
写っている記者にとっては、営業マンがお得意先の社長や社員と仲良くするようなもので、この行動は決して奇異でも異常でもないのです。
とはいえ、さすがに番記者たちのそうした性質というか生態は、先ほどお話しした建前からあまりにかけ離れていますので、政治家も記者も「隠し事」にしておくのが不文律でした。小林氏のお誕生会写真公開は、不倫関係の二人が堂々と自宅の近所で抱き合ってキスしたり、イチャイチャしているようなもので、神経を疑います。見るに耐えません。
以前は、政治家と番記者が仲良くしている姿をオープンにすることを少なくとも、双方が控えていた。お互いに「監視する側・される側」という「建前」を守っていた。最後の一線は超えなかったとも言えます。
ところが1990年代頃から、この「建前」が崩れていきます。最初から建前を守ろうという意識はなく「上司の命令」に基づく「当たり前の業務」として、リエゾン役を粛々と務める記者がどんどん増殖していった。
さらに2000~2010年頃になると、インターネット産業の興隆で、新聞やテレビが人気就職先から転落した。トップグループの学生が新聞社やテレビに入らなくなった。つまり人材が劣化し始めたのです。
「権力の監視」に最初から関心を持たない人が報道の現場に増えた。すると、上司の命じる通り、カイシャの伝統にしたがって、リエゾン業務に何の疑問も抱かない「いい子ちゃん」たちが番記者をやるようになります。この場合の「いい子」とは、カイシャや政治家にとって、という意味ですが。
もちろんこうした記者たちは「永田町への出向社員役」に何ら疑問を持ちません。「え?言われた通りの仕事してるだけですけど?」と彼らはきょとんとするでしょう。営業マンなら取引先と仲が良いに決まっている、というわけです。ならば誕生日をみんなで仲良くお祝いするのも当たり前です。
小林氏のほうも、そんな政治家と記者の「建前」とかジャーナリズムの原則など最初から知らない。「彼らの仕事はそんなもんだ」としか思っていない。「出入り業者の営業担当」「わが社に出向してきた関連企業社員」程度にしか考えていないのではないでしょうか。
「厳しい目で自民党をチェックして、政策を提言してくれる貴重な存在だ」などとかつての自民党の吉田学校門下生宰相(田中角栄など)のように思っていたら「こんな写真を出せば記者諸君が恥をかく」と考えるでしょう。
劣化を通り越して絶望的
今回、小林氏が写真を公開したのが「X」だったのも象徴的です。SNSが普及したので、こういう政治家と記者クラブ記者たちの関係が可視化された。
政治家も記者クラブ記者たちも、劣化を極めている。何が自分たちの「建前」の業務なのかすらわかっていない。それほど劣化している、という惨状です。
SNSのおかげで、政府や政党は、自分たちのプロパガンダを国民にダイレクトに届けることができる。そんな情報環境だからこそ、記者たちはプロパガンダに対して警戒的でなければならない。そう思うのです。
しかしまあ、小学生じゃあるまいし、政治家の「お誕生日会」をして記念撮影しているような幼稚な記者たちに、そんなことは期待できない。
そういえば、小林氏の投稿にどの社も抗議していないですね。これは劣化を通り越して「絶望的」と言わざるを得ません。










